亀山城 (かめやまじょう) (粉蝶城)(こちょうじょう) (県の史跡)
所在地 三重県亀山市西丸町570 2013.9.3 2019.6.9
亀山城 (かめやまじょう) (粉蝶城)(こちょうじょう) (県の史跡)
所在地 三重県亀山市西丸町570 2013.9.3 2019.6.9
城趾碑
多聞櫓
多聞櫓・高石垣
亀山神社
C型機関車
二の丸跡
三重櫓跡
外堀の公園池
二の丸帯曲輪・土塀
石坂門の石垣
亀山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 亀山神社(表記番地)の参詣用駐車場が利用できる[マップコード213 384 343*57]。
二の丸跡に亀山西小学校が建てられグランド北に二の丸帯曲輪があり土塀が復元され、埋門跡の石垣が見られる。
その西が本丸跡で南側に高石垣及び復元された多聞櫓があり、亀山神社(表記番地)、亀山演武場がある。本丸跡は公園となりC型機関車が展示されており、北西隅に三重櫓跡がある。
外堀の一部が本丸北側にあり、公園池・菖蒲園となっている。西の丸には亀山中学校舎が建てられている。
亀山市歴史博物館(亀山市若山町7−30) に石坂門の石垣が移設復元されている。石坂門は本丸と二の丸間の南側斜面に建つ櫓門であった(現城趾碑の南側)。
県道302号線の東に濠が残り、元禄十四年(1701年)五月九日早朝に起きた敵討由来の「石井兄弟亀山敵討遺跡」の石碑、説明版が建てられている。
昭和二十八年(1953年)5月7日、多聞櫓が県の史跡に指定された。
【歴史】 文永二年(1265年)に伊勢平氏の流れをくむ関実忠によって伊勢国鈴鹿郡若山(若山城)に築城された。神戸、国府、鹿伏兎、峯、亀山の各城を居城とする関五家の宗家の居城として重きをなした。
その後、現在の位置に移され、永禄十年(1567年)の織田信長の伊勢進攻以降は、たびたび戦場となった。
天正十八年(1590年)に豊臣秀吉に従った岡本良勝(宗憲)が入城後、翌年に、天守、本丸、二の丸、三の丸などその後の亀山城の母体となる城が形成されたとされる。江戸時代、亀山城は伊勢亀山藩の藩主の居城となった。慶長十五年(1610年)奥平忠明が三河亀山城より移った。
江戸時代初頭、丹波亀山城の天守を解体するよう幕府に命じられた堀尾忠晴の間違いで天守が取り壊された。
またこの時期の亀山城は幕府の宿所としての役割があり、上洛する徳川家康・秀忠・家光などが本丸を休泊に利用している。そのため、城主の居館は二の丸に置かれていた。
寛永十三年(1636年)、城主となった本多俊次により大改修が行われ、天守を失った天守台に多聞櫓が築造された。慶安四年(1651年)に近江膳所城より石川憲之が転封となった。
維新後の明治六年(1873年)、廃城令により殆どの構造物が取り壊された。このため現在は天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁など一部が残る。