勝山城 (かつやまじょう)
最寄地 山梨県甲府市上曽根町621 2014.1.3
勝山城 (かつやまじょう)
最寄地 山梨県甲府市上曽根町621 2014.1.3
登城ルート
標識・遠景
石碑
空堀跡
主曲輪
勝山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道113号線「上曽根」交差点より北に約150m、右折して行った、表記番地の西に登り口がある[マップコード59 341 688*48]。道幅は狭く、駐車スペースは少ない。
葡萄畑、桃畑の中の比高15mほどの小高い丘に城跡があり、南側より作業道があり登って行くと、空堀があり、笹薮の中に主曲輪があるが、桃園になっている。
入口に「沼田めぐり 攻めるにかたし勝山城」と刻まれた石碑が建てられている。
【歴史】 武田支流の油川氏の城である。油川信恵は甲斐国守護武田信縄の子で甥にあたる信虎に対抗し、永正五年(1508年)坊が峰の戦いで討死した。
永正十二年(1515年)に西郡の有力国人大井信達の救援のため駿河国の今川氏親が中道往還を甲斐へ侵攻し、吉田城(富士吉田市)と共に勝山城を占拠し、永正十四年(1517年)に和睦が成立して退去するまで拠点として活動した『宇津日記』。
天正十年(1582年)武田氏滅亡後の甲斐国を巡る天正壬午の乱において、徳川家康が相模国北条氏に備えるため、家臣の服部半蔵に城の改修を命じている。