伊賀上野城 (いがうえのじょう) (上野城・白鳳城) (国の史跡・日本100名城47)
所在地 三重県伊賀市上野丸之内106 2012.5.10 2016.9.2
伊賀上野城 (いがうえのじょう) (上野城・白鳳城) (国の史跡・日本100名城47)
所在地 三重県伊賀市上野丸之内106 2012.5.10 2016.9.2
大手
城跡碑
木造三重天守・二重小天守
筒井古城石垣
筒井古城跡
古城東空堀
堀・北西側高石垣
堀・西側 高石垣
上野城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 国道163号線「丸之内」交差点より北に行き、次を左折して行くと、公園駐車場(500円)が用意されている[マップコード131 645 896*58]。東に芭蕉記念館、上野歴史民俗資料館、北東に俳聖殿が建てられている。
芭蕉記念館の西側道路の西に空堀が残り、最高所に筒井氏時代の古城跡があり、城代役所跡が平面復元されている。また石垣が復元されている。
石垣の西に藤堂氏時代の本丸があり、天守台に模擬木造三重天守・二重小天守、土塀が再建されている(表記番地)。南に大手があり、「上野城跡」の石碑が建てられている。
本丸の西側から北にかけて水堀があり、高さ約30mの高石垣が良く残っている。
昭和十年(1935年)、衆議院議員であった川崎克の私財により木造の模擬天守が建設され、三階に寄付目録が掲示されている。
昭和四十二年(1967年)12月27日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(47番)に選定された。
【歴史】 城のある丘は平清盛の発願により建立された平楽寺があった。天正七年(1579年)九月、伊勢国の織田信雄(のぶかつ・信長の次男)が8千の兵を率いて伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆の前に敗退。天正九年九月織田信長の援軍をうけ四万の兵で伊賀国を平定し、織田信雄の家臣・滝川雄利を伊賀国守護とした。
滝川雄利は平楽寺、丸山城、滝川氏城を改修し伊賀国を支配した。本能寺の変の後、天正十二年(1584年)十月脇坂安治が伊賀国守護となったが、天正十三年(1585年)五月に摂津国に移封された。
同年八月 郡山城から移った羽柴姓を賜った筒井定次が入り天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺、仁木古館跡に三層の天守の城を築いた。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いで筒井定次は家康方につき、会津征伐に参戦し、上野城は筒井玄蕃が留守居役とし、西軍の摂津国高槻城主・新庄直頼、直定父子に上野城が攻撃されたが、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡した。
筒井定次は徳川家康の許しを得て直ちに軍を引き返し、城を再奪取した。関ヶ原の戦いの戦後、新庄直頼は改易され筒井定次は本領安堵、伊賀上野藩が成立した。
しかし、徳川家康は筒井定次をかねてから不行状で島清興などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、慶長十三年(1608年)六月に領地没収、磐城平城・鳥居忠政に預けた(筒井騒動)。
同年八月伊予国宇和島城から築城の名手とされる藤堂高虎が、伊賀国に入国し、伊賀上野城の大幅な改修に着手、大阪方に対抗するために特に西方面の防御に力をそそいだ。高石垣の規模の大きさを物語っている。南側を大手とし、堀を深く、南に二ノ丸を構築した。
天守の位置を西側に移動し、五重の天守閣完成をひかえた慶長十七年(1612年)九月二日、大嵐のため天守は倒壊した。大工や人夫合せて約180名が倒死、多数の怪我人を出した。
慶長十九年(1614年)、元和元年(1615年)大阪の役で徳川家康の勝利となり、豊臣氏の滅亡で堅固な城が必要なくなり天守は再建されなかった。
本丸に櫓は建てられなかったが、外堀の土塁上には、二層櫓がニ棟、単層櫓が八棟、多聞櫓をつけた東大手門、西大手門も建てられた。
藤堂高虎は大阪の役の後、交通の便のいい津城を本城とし、伊賀上野城を支城とした。
一国一城令で伊賀上野城は伊賀国の城として存続が認められると、弟の藤堂高清を城代とし、高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政八年(1825年)藤堂高猷(たかゆき)が最後の城主となるまで世襲した。
明治二年版籍奉還後、廃城令によって廃城処分とされ、他の城と同様に伊賀上野城も石垣上の構造物の多くが取り壊された。