内山城 (うちやまじょう)
最寄地 長野県佐久市内山5795 2014.11.5
内山城 (うちやまじょう)
最寄地 長野県佐久市内山5795 2014.11.5
登城ルート
園城寺東の入り口
衣笠神社
登り口・道標
登り坂・道標
主郭・祠
主郭・城址標柱
二郭・三郭
石垣
内山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【案内・感想】 国道254号線より北東に行った、園城寺(表記番地)駐車場の東に案内板が建てられている。東約50mに登山道入口(地図)がある。衣笠神社鳥居前を通ってその先より北に比高130mの頂上へ登る(所要時間20分)。
要所に標識が立てられ、尾根に出て登って行くと腰郭があり最高所に三角形をした主郭がある。
主郭には「内山城跡」の木製標柱が建てられ、祠が祀られている。南東に一段ずつ下って二郭、三郭があり、石垣の跡がある。更に斜面に小さく築かれたいくつかの郭を経て、堀切、水の手がある。
【歴史】 内山城は永正年間(1504~21年)に、大井美作入道玄岑(げんしん)が築城したと云われる。
甲斐国の武田晴信(信玄)は天文十年から信濃侵攻を始め、諏訪郡を征圧すると天文十五年(1546年)には佐久郡へ侵攻し、同年五月三日には内山城攻めを行い、城主大井貞清は降伏して武田氏に臣従した(『高白斎記』)。
内山城代には一時大井貞清に任されるが、同年七月十八日に武田家臣の上原伊賀守昌辰(小山田備中守虎満)が城代となり(『高白斎記』)、虎満は死去まで城代を務めている。
天文十七年(1548年)二月十四日には、小県郡上田原における上田原の戦いにおいて武田方を撃退した村上義清は内山城を攻めたが、晴信は諏訪上原城から佐久へ出馬しこれを退けた。
天正十年(1582年)に武田氏が滅亡した後、翌、天正十一年(1583年)に徳川家康の配下依田信蕃(よだのぶしげ)らによって攻略された。その後、廃城になった。