安養寺城 (あんようじじょう) (安養寺御坊)
最寄地 富山県小矢部市末友548 2014.10.25
安養寺城 (あんようじじょう) (安養寺御坊)
最寄地 富山県小矢部市末友548 2014.10.25
勝興寺の安養御坊跡
勝興寺の安養御坊跡
説明板
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 八幡宮(表記番地)前の道路を東に100m、北に50m行くと、水田の中に一辺10m弱の台地があり、安養寺御坊跡の石碑と説明板が建てられている[マップコード 122 460 195*2 ](地図)。
主郭は一辺が約200mの方形で、その周りを空堀と土塁が巡らされていた。主郭から東側には「寺町」と呼ばれる地が在り、寺によって町割りが行われた寺内町を内包した惣構えを有していた。
昭和四十四年(1969年)5月22日、小矢部市の史跡に指定された。
【歴史】 伏木古国府にある勝興寺は文明三年(1471年)に蓮如上人の次男蓮乗が土山御坊(福光町土山)を開いたことが起源である。
明応三年(1494年)土山から高木場(高窪)へ、火災のため、その後、永正十六年(1519年)に当地へ移転してゆく間に真宗教団内での寺格も次第に高くなった。
元亀三年(1572年)、加賀一向一揆が蜂起した。勝興寺もこれに呼応して蜂起し、加賀勢と共に越中富山城を落城させて神通川以西を一時的に制圧するも、謙信に敗れて富山城を奪回された。この蜂起には武田信玄の要請という側面も有る(『勝興寺文書』)。
天正三年(1575年)、謙信が越中を攻略し、勝興寺は和睦した。天正九年(1581年)当時の住職顕幸が石山合戦に出陣中、木舟城主・石黒左近に攻められ焼失した。
天正十二年(1584年)佐々成政は守山城主・神保氏張を通して、古国府の地に現在の勝興寺が寄進され再興された。