上ノ平城 (うえのだいらじょう) (神之平城) (県の史跡)
最寄地 長野県上伊那郡箕輪町東箕輪2871 2015.12.29
上ノ平城 (うえのだいらじょう) (神之平城) (県の史跡)
最寄地 長野県上伊那郡箕輪町東箕輪2871 2015.12.29
説明板
入口標識
二の郭西の一の堀
二の郭跡・標柱・説明板
二の郭跡・二の堀
主郭
主郭三郭間の堀の北部分
三の郭中央の空堀
上ノ平城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道442号線より東に行った、表記番地の北と南に二ヶ所入口があり、標識が建てられている。南の道を東に行くと、駐車スペースがある[マップコード171 645 342*62]。「一の空堀」があり、左の土塁上に祠が祀られている。
「一の空堀」の右に約70m四方の二の郭跡(地図)がある。空き地と一部畑となっている。二の郭の入口に標柱、説明板が建てられている。「二の空堀」はかなり埋まっている。
その東に2m程高く同規模の一の郭がある。芝地、花畑となっており北側に説明板が建てられている。その北に腰郭があり、知久沢川が流れている。
一の郭の東に「三の空堀」、空堀がそれを二分して、手入れされ良好に残っている。東に少しずつ高くなって、四の郭(地図)、御射山平と続いている。樹木はなく、見晴らしは良好である。
昭和四十四年(1969年)7月3日、長野県の史跡に指定された。
【構造】 城跡は東方山麓より西に延びる舌状台地先端部に位置し、その規模は東西約450m、南北約200mである。
城跡は南北にわたる5条の空堀により区画され、西から「二の郭」、「一の郭(主郭)」、「三の郭」、「四の郭」と呼ばれている。
このうち「三の郭」「四の郭」は、中央を東西約180mの空堀により南北に夫々分かれている。
【歴史】 平安時代末に源為公(みなもとのためとも)によって築城されたと伝えられている。
鎌倉時代中期には諏訪氏と同族の知久氏の拠るところとなり、知久信貞が下伊那(飯田市下久堅)に移ってからは、使われる事が無かったとされてきた。
しかし平成十~十二年の発掘調査では、戦国時代の遺構や遺物が確認され、城は戦国時代にも機能していた事が明らかになった。
調査では、主郭の地表面下から土塁・礎石建物跡・出入口遺構等を伴う生活面が確認され、そこから大量の炭化物や焼土が出土した事から何らかの理由により焼失したと考えられる。
また同時期の遺構として、主郭と二の郭の間から空堀も確認された。『箕輪町教育委員会説明板』より。