妻籠城 (つまごじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県木曽郡南木曽町吾妻235 2014.7.3
妻籠城 (つまごじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県木曽郡南木曽町吾妻235 2014.7.3
登城ルート
登り口・城跡碑・説明板
登り口の城跡碑
堀道
土橋
堀切
二の丸西の空堀
二の丸跡
本丸跡
妻籠城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 標記番地の南200mの旧中山道に面して、妻籠城跡の登り口があり、石碑と説明看板が建てられている[マップコード178 597 571*40](地図)。そこより中山道を南に行くと「妻籠宿」である。
西に登って150m程行くと土橋(二十世紀以前は木橋)があり、堀切がある。南に二の丸跡、空堀、直径40mほどの円形をした本丸跡があり、下段に帯曲輪が取り巻いている。
比高約60mの山頂の本丸跡には土塁が残り「御嶽山大権現」「八海山神社」の石碑があり、他に「木曽谷恩賜金由来之碑」「林君記念乃碑」がある。 本丸から妻籠宿の家並が臨める。
平成十六年(2004年)11月22日、長野県の史跡に指定されている。
【歴史】 16世紀中期に木曽氏は甲斐の武田氏に従い、福島城主木曽義昌は信玄の三女真理姫を娶り姻戚関係にあった。
しかし義兄の武田勝頼による新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた義昌は、天正十年(1582年)、遠山友忠を仲介役として織田信長と盟約を結んで、妻籠城等の支城を改築し、勝頼に対し反旗を翻し、織田信長の甲州征伐のきっかけとなった。
武田勝頼軍が新府城を出発する前の二月二日、人質として送られていた70歳の母、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫が新府城にて処刑されるという悲劇に義昌は遭遇した。勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣するが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て鳥居峠にて撃退した。
天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、木曾義昌は最初徳川家康側に付いていたが、圧力により羽柴秀吉側についた。妻籠城に木曽義昌の家臣・山村甚兵衛良勝(たかかつ)が入り、徳川家康方の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らと戦い退けた。
山村良勝は天正十八年(1590年)義昌が下総へ移封となると家督を継いだ義昌の子・義利に仕えた。
慶長五年(1600年)木曽義利が不行状により改易されると、良勝は徳川家康の家臣となった。慶長二十年(1615年)六月の一国一城令により、廃城になった。