赤木城 (あかぎじょう) (国の史跡)
最寄地 三重県熊野市紀和町赤木122 2016.4.26
赤木城 (あかぎじょう) (国の史跡)
最寄地 三重県熊野市紀和町赤木122 2016.4.26
登城ルート(緑線は車道)
北山一揆供養塔
駐車場・説明板
東郭
虎口
虎口石垣
主郭虎口
主郭・城跡碑
北郭
西郭
赤木城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道311号線「風伝トンネル」西より右折県道40号線を2.4km行くと丸山千枚田展望所がある。眼下に代搔き中の千枚田が一望できた。
県道40号線をさらに2.6km行き左折、県道765号線を700m行くと左に「田平子峠刑場跡」があり、「天正・慶長 両度北山一揆殉難者供養之塔」が建てられている(地図) 。
左折して1.1km行くと赤木城跡駐車場に着く[マップコード246 789 863*24](地図)。
駐車場隅に説明板が建てられ、登ってゆくと、東1・2郭があり、虎口がある。
虎口の先に石垣の残る主郭がある。主郭は東西約30m南北約25mと広く、入口付近に城跡碑が建てられている。
北に北郭、南西に西郭があり夫々石垣がある。東郭と西郭の中間に南郭がある。
昭和五十七年(1982年)4月、田平子峠刑場跡と共に三重県の史跡に指定され、平成元年(1989年)10月9日には国の史跡に指定された。
【歴史】 和歌山藩が編纂した『紀伊風土記』には、寛文雑記を引いて天正年間、藤堂佐渡守(のち藤堂和泉守高虎)と、羽田長門守の両人が北山代官のとき築き、罪を犯したものを赤木城の西方の田平子峠で斬首し獄門にしたと記している。当地では「行ったら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と、処罰の厳しさが歌となって残っている。
また、熊野市神山の倉谷家文書には、天正十六年(1588年)大和大納言(豊臣秀長)の北山攻めの後、築城したとある。
藤堂佐渡守は、天正十三年(1585年)の紀州攻めの際、北山入りし、文禄四年(1595年)四国伊予三郡を与えられるまでの十一年間、北山付近に在居し、この間、二度の北山の陣で一揆方を成敗したり、北山材の伐り出しを行っているので、このころに現在の城郭に整備したものと考えられる。
【構造】 この城の特徴は中世と近世の築城法を併用した平山城である。南北約130mの尾根を中心にして縄張りし、主郭、南の郭、西の郭を地割し、主郭の東側下の犬走りは北の郭とその下方約50mの堀切に通じている。
また南の郭の下には付曲輪を残し、その西側には自然の谷を空堀にしている。石垣は野面乱層積みで反りがなく、主郭の四隅は算木積みと横矢掛りの工法を用いている。築城当時の原形を残した城跡は全国でも少なく貴重である。『紀和町教育委員会説明板』より。