田丸城 (たまるじょう) (玉丸城・玉丸御所 ) (県の史跡)
所在地 三重県度会郡玉城町田丸114-2 2016.4.3
田丸城 (たまるじょう) (玉丸城・玉丸御所 ) (県の史跡)
所在地 三重県度会郡玉城町田丸114-2 2016.4.3
外堀・大手橋
中学校入口
富士見門
北の丸石垣
北の丸跡
本丸虎口
本丸跡・天守台石垣
二の丸本丸間の空堀
二の丸跡
奥書院
田丸城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 外堀の橋を渡った玉城町役場(表記番地)に駐車場がある[マップコード118 541 451*10] 。北に、村山龍平記念館があり、左手に奥書院が復元されている。
西に大手門跡の石垣がよく残り、玉城(たまき)中学校がある。その西に一段高く石垣のよく残る本丸跡があり、天守台石垣が残っている。
北に「城山稲荷神社」の北の郭があり、本丸の南に二の丸跡がある。石垣の空堀がその間に残っている。
昭和二十八年(1953年)5月7日、三重県の史跡に指定された。
【歴史】 伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられたが、康永元年(1342年)、足利尊氏に攻められて落城した。
その後、室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建された。
戦国時代、織田信長の伊勢侵攻に伴い北畠具教(とものり)の養嗣子となった織田信雄(のぶかつ)の居城として天正三年(1575年)に改築され、三層の天守を備えた近世城郭へと生まれ変わったが、5年後に火災で天守を焼失した。織田信雄は松ヶ島城へと移った。
その後、蒲生氏、稲葉氏、藤堂氏と城主が変わったが、最終的に元和五年(1619年)、紀州徳川家の治める紀州藩の所領となった。
徳川頼宣は、遠江久野城城主であった付家老久野丹波守宗成に1万石を与え、田丸城城主として田丸領6万石を領させた。
久野氏は、家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせた。
久野氏はその後8代続き、明治維新を迎えた。また、大岡忠相の山田奉行時代は天領と田丸領の争いの舞台のひとつとなった。『ウィキぺディア』より。