花沢城 (はなざわじょう)
最寄地 静岡県焼津市高崎358 2014.6.13
花沢城 (はなざわじょう)
最寄地 静岡県焼津市高崎358 2014.6.13
説明板
登城ルート
説明板・入口標柱
一ノ曲輪
一ノ曲輪
稲荷神社
花澤城址碑
一・二ノ曲輪間の空堀
花沢城 一ノ曲輪跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 国道150号線の北、「八幡神社」(表記番地)より北東に600mほど行った五叉路東に「花沢城跡」の標柱と説明板が建てられている 。そこより80m行き、分岐を右に50m行くと沢に沿った登り口がある[マップコード25 219 328*65](地図)。
そこより北東に比高60mの山頂に登ると、朱鳥居のある「一ノ曲輪」があり「花澤城址」の石碑が建てられ、稲荷神社があり、低い土塁が残っている。
南に空堀があり、手入れは良くないが「二ノ曲輪」がある。二ノ曲輪の南尾根上に茶畑の曲輪が三ヶ所ほどある。
【歴史】 築城は、天文六年 (1537年)とされる。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元の敗死と寿桂尼(義元の母)の相次ぐ死による求心力の低下した今川氏の駿河国に、永禄十一年(1568年)武田信玄が侵攻を開始した。
義元の後を継いだ氏真(うじざね)は今川館を追われ、懸川城に立て籠もった。
武田信玄は、今川家家臣・岡部氏を傘下に入れ、永禄十三年 (1570年)正月四日、城主大原資良以下今川家臣の立て籠もる花沢城に攻め入った。
城兵は奮戦したが、同月二十七日に降参し開城した。資良は、遠江に退去したと伝わる。
花沢城を落した信玄は、続いて長谷川正長が守る徳之一色城(後の田中城)を落し、山西地域を支配下に置いた。