一柳城 (ひとつやなぎじょう) (大洞城・津保城・町村城)
最寄地 岐阜県関市富之保4061‐1 2014.11.24
一柳城 (ひとつやなぎじょう) (大洞城・津保城・町村城)
最寄地 岐阜県関市富之保4061‐1 2014.11.24
登城ルート
稲荷神社南・由来板
南側削平地より主郭方向
二郭西石垣
二郭南石垣
二郭東石垣
二郭(奥が主郭)
主郭跡・祠
一柳城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 県道63号線に面したスーパー「マルマン」(表記番地)の南の細い参道を行き[マップコード755 003 481*81] 、稲荷神社に駐車できる。
拝殿横に登り口があり由来文が掲示されている(地図)。途中より倒木で道は消えるが、構わず直進し、谷の突き当りを西側(左側)の尾根に左折し、径がそれとなく見えるので登ると、尾根に出る。
尾根には車道が建設中で、駐車場用と思われる新しい平坦地がある。平坦地は曲輪と思われるが、重機で削られ痕跡はない。
北東に登って行くとすぐに二郭の石垣が2ヶ所残り、主郭南東虎口下に石垣がある。標高約259m比高約100m頂上に主郭があり、祠が祀られている。
【歴史】 源平の戦いの後、甲斐の国から命を受けた大和守昌知が大洞に仮小屋を造り大洞城と名付け、この地一帯の荘園の管理をした。
(荘司ヶ洞に宇佐美丹波守が居城を構えた)その後美濃が信長の領地となり一柳伊豆守直末が新たに愛宕山に築城し、後に一柳城と名付けられた『登山口由来文より』。
天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いの後、秀吉の命で直末は竹ヶ鼻城に移った。
その後、加治田城の美濃斎藤利治の領土となり、支城となった。利堯の病死後、加治田城(廃城後)に次ぐ重要拠点となる。
森長可が小牧・長久手の戦いで討死の後、天正十五年(1587年)、豊富秀吉は遠藤慶隆を追放し、一柳城(大洞城)に稲葉貞通を入封した。
稲葉貞通は郡上八幡城を居城として治め、中でも大洞城は加茂郡から郡上八幡に至る重要な位置にあり重視された。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いの際、遠藤氏は東軍に属して郡上八幡城、一柳城を攻めた。
戦後、稲葉貞通は豊後・臼杵城主として転封され、郡上八幡城に再び遠藤氏、金森氏が入城したが、徳川幕府の一国一城令に基づき、一柳城は廃城となった。
その後は、上有知陣屋の所轄となり、明治維新に至った。