金ヶ崎城 (かな(ね)がさきじょう) (敦賀城) (国の史跡)
所在地 福井県敦賀市金ヶ崎町1‐1 2014.6.15
金ヶ崎城 (かな(ね)がさきじょう) (敦賀城) (国の史跡)
所在地 福井県敦賀市金ヶ崎町1‐1 2014.6.15
登城ルート
金崎宮
金崎宮西側・城址碑
月見御殿曲輪
敦賀港埠頭
三の木戸跡
二の木戸東堀切
一の木戸跡
金ヶ崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【感想】 敦賀湾を望む標高90mの山頂に築かれており、現在は公園化されており、曲輪、櫓台跡などが残る。
頂上に本丸があり、北に敦賀セメントのヤード、西に敦賀港埠頭が望め、遠く敦賀湾や敦賀原発のある半島が望める。
東の尾根上に西から三の木戸跡、堀切、二の木戸跡、堀切、一の木戸跡、堀切と明瞭に並んで配置されている。
【案内】 金前寺前の駐車場が利用できる[マップコード192 879 134*10]。金崎宮参道の途中に愛宕神社(表記番地)があり、西の金崎宮奥に「金ヶ崎城趾」の石碑が建てられている。
そこより北に登ってゆくと、高所に「尊良親王御陵墓見込地」の石碑がある。敦賀湾を望む標高86mの頂上手前に「金碕古戦場」碑があり、明治42年6月に発見された古墳(円墳)がある。頂上に本丸であった月見御殿の曲輪がある。
昭和九年(1934年)3月13日、国の史跡に指定された。
【歴史】 治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曽義仲との戦いに備えここに城を築いたのが最初と伝えられる。
1336年(南朝延元元年/北朝建武三年十月十三日)、足利尊氏の入京により、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が恒良(つねなが)親王、尊良(たかなが)親王を奉じて入城した。直後、足利方の越前守護斯波(しば)高経らの軍勢に包囲され兵糧攻めにされた。
翌1337年(延元二年/建武四年二月五日)、義貞らは、闇夜に密かに脱出し、杣山城(南越前町)で体勢を立て直し、二月十六日、義貞は金ヶ崎城を救援しようとするも敦賀郡樫曲付近で足利方に阻まれた。三月三日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られた。三月六日、尊良親王、新田義顕(義貞の嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王は捕縛され、落城した。
その後、足利方の越前平定により、越前守護代甲斐氏の一族が守備、敦賀城と称した。
長禄三年(1459年)五月十三日、守護斯波氏と守護代甲斐氏の対立が深まりやがて長禄合戦に発展し、古河公方・足利成氏征討の幕命を受けた斯波義敏は兵を引き返して金ヶ崎城を攻撃したが、甲斐方の守りは堅く、義敏方は大敗した。
この戦いは8代将軍足利義政の怒りを買い斯波義敏は失脚した。
朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していた。 元亀元年(1570年)四月二十六日、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起し、徳川家康、木下藤吉郎等に攻められ、天筒城と共に郡司朝倉景恒の金ヶ崎城も落城、開城した。
しかし、浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、近江朽木越えで京に撤退した(金ヶ崎の戦い)。
天筒山城(てづつやまじょう)は、金ヶ崎城の枝城で標高約171mの天筒山に構築された山城である。金ヶ崎城とは稜線伝いに遊歩道で繋がっている。
元亀元年四月二十五日、織田軍(十万人)に攻め込まれ、双方数千の戦死者が出る戦いとなったが陥落し、朝倉景恒は金ヶ崎城に陣を引くことになった。