春日城 (かすがじょう)
最寄地 長野県佐久市春日2935 2015.10.12
春日城 (かすがじょう)
最寄地 長野県佐久市春日2935 2015.10.12
登城ルート
北東側登り口・墓地
平坦地
空堀・土橋・平坦地
二の郭跡・秋葉神社
本丸跡・土塁
本丸南の堀切
北側登り口にある説明板
春日城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高120m】
【案内・感想】 県道151号線「春日小学校入口」交差点の西50mより左折して、康国寺(表記番地)山門前より南に行く。駐車スペースは少ない。
山門の先の細い坂道を行った、墓地の横に北東登り口がある[マップコード85 192 024*87](地図)。
右に大きく回って登ると大きな建物のある平坦地に出、居館跡と考えられる。その南西に土塁・堀切・土橋があり、その先にも堀切・土橋がある。
斜面を登ってゆくと秋葉神社が建てられている二の郭跡に出る。空堀で隔てて、標高892.8m比高約120mの山頂に本丸跡があり南に土塁が残っている。
その南に堀切が二条残っており、南の20mほど高い山頂に連なっている。碑、標識などはない。
唯一、西麓の県道151号線の墓地前に説明板が建てられ、ここからも平坦地に登れる(地図)。
【歴史】 鎌倉時代初期より室町時代にかけての春日氏の城であった。春日氏は望月氏の同族である小県の祢津氏を出自としている。
保元の乱で活躍した祢津神平の子貞親が春日氏の祖となり、貞親の子貞幸は承久三年(1221年)承久の乱の宇治川の戦いで大功を立てて全盛時代を迎えた。
永正十三年(1516年)には望月氏に滅ぼされ、その後は望月氏系春日氏の居城となった。
戦国時代には甲州の武田氏に従った芦田(依田)氏の居城となり、天正十年(1582年)城主依田信蕃(のぶしげ)は小田原の北条氏の攻撃を受けたが、身をもって逃れ、のちに春日城を奪還した。
翌年、岩尾城攻めで負傷しそれがもとで没すると、子の康国が継ぎ、天正十八年(1590年)小田原征伐に徳川方として従軍したが、四月石倉城攻めで戦死すると弟の康勝が小諸領(春日城)を継いだ。
家康が関東移封となると武蔵国と上野国に3万石を与えられ同年八月、藤岡城主として移った。『望月町教育委員会説明板』。