岩木砦 (いわきとりで) (岩木城)
所在地 富山県富山市稲代 2014.10.23
岩木砦 (いわきとりで) (岩木城)
所在地 富山県富山市稲代 2014.10.23
土塁・標柱
土塁・標柱
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道69号線の「加納」交差点より西に390m行き高山線踏切を渡った所より南に線路に沿って300m行き、西に200m行くと、水田の西端にある墓地に土塁が残り、「加納岩木土塁跡」「岩木砦跡」の標柱建てられている[マップコード 288 892 143*12](地図)。
神通川右岸に面した河岸段丘上(標高80m)に築かれている。対岸には城生城跡がある。城の西側は断崖となっており、他の三方は土塁があったとされる。
『越登賀三州志』に依ると、一辺が8間の正方形の郭と南北8間、東西6間の郭で構成されていたとされる。近年の調査では郭の周囲に二重の空堀を巡らせていた事が明らかになっている。
【歴史】 元亀三年(1572年)、元は飛騨国の出で、その勢力を神通川に沿って徐々に越中国へと拡大して越中国猿倉城主となっていた塩屋秋貞が、斎藤信利が拠る越中国城生城を攻略する為に、その向城として築いた。信利は上杉謙信に救援を求め、結果秋貞は退却した。
天正四年(1576年)、上杉勢に攻め落とされたと云う。その後、杉政三郎右衛門なる者が拠ったとされるが、彼がどの勢力に属していたかは上杉方、斎藤方、塩屋方と史料によって全く違っており、断言するのは困難である。
同六年(1578年)、塩屋秋貞が織田信長に下り、岩木城主となるが、上杉方の越中国津毛城主村田大炊介(村田修理亮秀頼か)に攻められて飛騨国へ追い返された(『越登賀三州志』)。
同十一年(1583年)三月、秋貞が城生城を攻めるも上杉方の援軍の到着により退却し、追撃する上杉勢によって射殺された。
同年八月、城生城が織田方の佐々成政、神保氏張によって包囲されて落城した。これによって岩木城もその存在価値を失くしたと云え、事実上この時期に廃城となったと思われる。