勝幡城 (しょばたじょう)
最寄地 愛知県稲沢市平和町城之内105 2014.12.11
勝幡城 (しょばたじょう)
最寄地 愛知県稲沢市平和町城之内105 2014.12.11
勝幡城址の碑
説明板
織田信定古城蹟の碑
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 県道121号線の「那古良橋西」交差点より西に220m行った表記番地手前に、大正四年十一月建之「勝幡城跡」の石碑、説明板がある[マップコード78 119 558*65](地図)。石碑の裏に漢文の由来が刻まれている。
また日光川堤防道路を南に220m行き、階段を下りた所に「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」(明治四十三年六月建之)と刻まれた石碑が建てられている[マップコード78 119 322*58](地図)。
二重の堀で囲まれていた館城であり、三宅川が外堀の役目をしていたと推定される。「勝幡村古城絵図」によると、本丸は東西二十九間、南北四十三間、幅三間の方形土塁と記されている。
三宅川と日光川が合流する三角州となっているが、現在の日光川は江戸期に萩原川が大規模に掘削され流れを変えられたもので、城郭の多くの部分が現日光川に位置し、当時の縄張りは窺い知ることは出来ない。
昭和五十四年(1979年)櫓台とされる位置の3m地下から基石が発見され、愛西市佐織支所(愛西市諏訪町池埋500-1)に保管されている。
【歴史】 永正年間(1504~21年)頃、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定(子に信秀・信康・信光・信実・信次)(その父良信ともいう)が、尾張国の海西郡を手中に治めた際、大中臣安長の屋敷跡に勝幡城を築城したといわれる。
この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で信定または織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれる。
天文元年(1532年)信定の跡を継いだ信秀(子に信広・信時・信長・信行・信包・秀孝・信治・信興・秀成・信照・長益・長利)は今川氏豐から那古野城を攻め取ると、那古野城に移り、勝幡城に家臣の武藤雄政(武藤掃部)を城代として置いた。
天文二年(1533年)、公卿の山科言継は信秀から勝幡城に招かれ、その際に城の規模と出来栄えに驚いたと日記に記している(『言継卿記』)。
このことから商業地の津島を支配下に置いた「織田弾正忠家」の経済力が窺える。
『尾州古城志』によると、天文三年(1534年)に信秀の嫡子・信長は、この勝幡城で産まれたと記されている。那古野城という説もあるが、近年研究家の間では勝幡城説が有力になってきている。
弘治元年(1555年)、信長は主家の織田大和守信友を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤掃部を尾張野府城へと移した。
それにより次第に衰退して、やがて勝幡城は廃城となった。