刈谷城 (かりやじょう) (刈屋城・亀城)
所在地 愛知県刈谷市城町1丁目1 2014.12.9
刈谷城 (かりやじょう) (刈屋城・亀城)
所在地 愛知県刈谷市城町1丁目1 2014.12.9
本丸・十朋亭
城池
城址碑・二の丸跡碑
南西隅櫓付近の土塁
刈谷城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 刈谷体育館(刈谷市逢妻町4丁目32)の南の駐車場が利用できる[マップコード17 553 321*60]。
多目的広場の西に堀を拡張した「子亀池」「城池」がある。
その西の高台に、土塁で囲われた本丸は「亀城公園」となり、北西隅の三層の櫓があった場所に「十朋亭」が建てられている。
城町交差点北に「刈谷城址」、「刈谷城二の丸跡」の石碑建てられ、傍に「豊田佐吉胸像」が建てられている(地図)。
本丸の南側は南西隅櫓・多聞櫓建設のための準備工事中なのか、ブルーシートで覆われていた。
【構造】 衣ヶ浦に注ぐ逢妻川東岸に面して築かれ、西から順に本丸、帯曲輪、さらに、入江のない他の三方に堀が巡らされて二の丸(刈谷球場付近)、三の丸(亀城小学校付近)と続き、三の丸東側に大手門(城町図書館南付近)が置かれていた。
天守はなかったが、北西と南東に隅櫓があり、周りを土塀で囲んで本丸を形成、二の丸との間には内堀と馬出しが設けられていた。
【歴史】 天文二年(1533年)緒川城主・水野忠政により築城された。築城後、忠政は本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康の生母於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁している。
於大は父忠政の死後、兄水野信元が今川氏を離れ織田氏についた(織田水野同盟)ため松平氏を離縁された後も刈谷城近くの椎の木屋敷で久松氏に再嫁するまでの日を過ごしている。
『三河物語』桶狭間の戦いの項目に「小河より水野四郎右衛門尉(信元)殿方カラ、浅井六之助(道忠)ヲ使にコサセラレテ」との記述があり、桶狭間の戦い当時、水野信元は緒川城を守備していたか、あるいは日和見をしていたと考えられる。 また、『三河物語』の三河一向一揆の項目では、水野下野守(信元)殿、雁屋(刈谷)より武具にて佐崎之取出え見舞に御越有。」と記述がある。
水野信元は天正三年(1575年)十二月、佐久間信盛の讒言により、信長から武田方への内通を疑われ、命を受けた家康に殺害されるという非業の最期をとげ、刈谷城は佐久間信盛の領有となった。
天正八年(1580年)佐久間信盛は織田信長に追放され、信元の末弟・水野忠重が城主に復した。
忠重、勝成、忠清と五代百年の水野氏の居城を経て、寛永九年(1632年)に深溝松平家が入城した。
その後、久松松平家(1649年~)、稲垣氏三代(1651年~)、阿部氏二代(1702年~)、本多氏(忠勝系、1710年~)、三浦氏三代(1712年~)と頻繁に城主の交代があった。
延享四年(1747年)土井氏が入封し九代の支配の後、明治四年(1871年)の廃藩置県を迎え、城は破却された。
明治時代以後城域地は国有化された後、旧士族に払い下げられた。さらに昭和十一年(1936年)刈谷町が譲り受け公園として整備されたが戦時中には軍の高射砲陣地が置かれ老松は切り払われ荒廃した。
戦後に至り徐々に植栽・公園整備され現在は桜の名所となっている。また旧三の丸には藩校文礼館の流れを汲む刈谷市立亀城小学校および刈谷市郷土資料館(国の登録有形文化財)が建っている。
隅櫓や石垣、城門を復元する再整備計画があり、2015年度に刈谷市歴史博物館、2017年度に隅櫓や石垣の完成が予定されている。