明知城 (あけちじょう) (白鷹城) (県の史跡)
最寄地 岐阜県恵那市明智町1553−1 2014.11.7
明知城 (あけちじょう) (白鷹城) (県の史跡)
最寄地 岐阜県恵那市明智町1553−1 2014.11.7
登城ルート
入口
搦め手砦・空堀
石垣跡・出丸跡
出丸跡
腰郭
二の丸跡
本丸跡
縄張り図
明知城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 明智町市街地の東、標高528mの丘陵に築かれている。
国道363号線より県道33号線に入り、約1km行った「明智学校給食センター」(表記番地)南の県道に面して標識があり、100m程西に行くと駐車場が用意され、案内板、城跡碑、城跡入口がある[マップコード368 482 025*73](地図)。
空堀を通って南に行くと「搦め手砦」「二の丸東砦」があり、草が多いが畝状竪堀が多数残る。
南に東西17間・南北14間の広さを持つ出丸があり虎口に石垣の門の跡が残っている。出丸北側は「猿戻し」と呼ばれる絶壁となっている。
出丸の北に二の丸があり、東西17間・南北11間の広さがあり井戸跡と思われる窪地がある。
登って行くと、虎口があり一段髙くに本丸がある。本丸には城跡標柱、案内板、縄張り図が建てられている。土盛砦として大小23ヶ所を備えている。本丸下には腰曲輪がある。
昭和三十九年(1964年)12月8日、岐阜県の史跡に指定された。
【歴史】 宝治元年(1247年)源頼朝の重臣・加藤景廉(かげかど) の孫の明知遠山氏の始祖・景重により築城され、遠山氏累代の居城であった。
天正二年(1574年)春、武田勝頼は2万の大軍で東美濃を攻略し明知城に向かった。城主遠山一行が叔父利景と共に急を織田信長に報じ、兵5百で明知城を守った。
信長は子・信忠と共に兵3万を率いて明知城の西方鶴岡山に布陣した。しかし武田の将山県三朗兵衛昌景は千騎を以て信長の退路を断ったため、信長は山岳戦の不利を思い動かず、やがて兵を引いた。援軍を失った明知城は落城した。
天正三年(1575年)五月、織田信長は長篠の戦いで武田勝頼を破ったのに続いて、嫡男信忠を総大将とする武田征伐軍が武田方に占拠された諸城を次々に奪回し、明知城も再び織田方の城となった。足助の鈴木氏を頼っていた遠山利景と一行は、明知城に帰還した。
天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて、遠山勢は菅沼定利の部隊に組み込まれた。長久手の戦いで岩村城主森長可が没したその隙に、家康の命により明知城を奪還する。しかし、家康が和睦し、天下人豊臣秀吉に城を長可の弟森忠政に返すよう命じられ、森左近が明知城城代となる。再び足助の鈴木氏を頼った。
慶長三年(1598年)八月秀吉死後、さまざまな確執がある中、家康は森忠政を川中島に移封、代わりに田丸直昌を岩村城主とした。その際明知城城代として原土佐守を置いた。
慶長五年(1600年)九月、関ヶ原の戦いの際、小山の陣から真田氏とともに田丸氏は家康から離れ西軍に属した。家康は秀忠軍が通ると想定されたことから、利景に東美濃奪還を命じた。
利景の子の方景や小里光明とともに、また妻木城主の妻木氏などと協力して田丸勢を追い出し、明知城を奪取し東美濃を平定、岩村城も開城させた。
慶長八年(1603年)九月、東濃平定の戦功により遠山利景は、恵那・土岐郡内で6700石を与えられ旗本となる。旗本5千騎のうち、6千石以上の旗本は五十指に満たない。
岩村には、(大給)松平家乗が入城するが、家乗は利景の妻の親戚筋(松平久子の曾孫)となる。
慶長二十年(1615年)六月の一国一城令により旗本2代領主遠山方景に江戸邸が与えられ、明知城は廃城となり、城下大手門近く(北西側麓)に陣屋を構えた。この陣屋は代官が江戸時代から明治の大政奉還まで行政を行ったところである。