生土城 (いきどじょう)
最寄地 静岡県駿東郡小山町生土82-5 2022.8.27
生土城 (いきどじょう)
最寄地 静岡県駿東郡小山町生土82-5 2022.8.27
登城ルート
雲霧神社
雲霧神社手前山側の階段から登る(左へ)
北側頂上・三角点
中間の延宝四年の石塔
南東の堀切
南東上段の郭
井戸・南東下段の郭(北西から見下した所)
南東下段の郭・社
生土城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高110m】
【感想】 鮎沢川左岸の標高378.9mの三角点から南東に伸びた尾根上に築かれている。富士山の宝永の大噴火の火山灰でここも埋まったと考えられ、明瞭な区画は少ない。
南東側に浅い堀切があり、最下段に井戸や社が祀られ、切岸が見られる程度であった。
【案内】 県道394号線に面した「音渕公民館」の駐車場が利用できる[マップコード434 089 881*77]。
山裾の道を西へ約100m行き、右上の階段を登ると、雲霧神社に着く。神社東にフエンス開口部があり(地図)、そこから左斜めに急勾配の斜面を登ってゆくと、所々にロープが張ってあり、山道が続いている。
北西頂上に三角点があり(地図)、明瞭な区分はないが南東にだらだらとした曲輪が続いている。
中間付近に延宝四年・・と刻まれた石塔があり、更に南東に堀切が見られ、南東下段の郭に井戸や朽ちた社が見られる。
【歴史】 築城時期は不明だが、室町時代初期より東駿に勢力のあった大森氏により築かれたという。
応永ニ十三年(1416年)に起こった上杉禅秀の乱では、鎌倉公方足利持氏は大森氏を頼りこの生土城に身を寄せたという。(『駿河記』)
のち、大森氏は徐々に勢力を拡大し西相模一帯を支配下に治め、小田原城を築いた。
明応四年(1495)8月、伊勢新九郎長氏(のちの北条早雲)により小田原城を奪われると勢力は衰退し、やがて滅亡してしまう。