堀江館 (ほりえやかた) (番田堀江館)
所在地 福井県あわら市番田 2017.6.25
堀江館 (ほりえやかた) (番田堀江館)
所在地 福井県あわら市番田 2017.6.25
由来碑・館跡碑・宮
由来碑
堀江館跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 竹田川と番田駅の中間東側の道路横にあり、周囲はのどかな田園風景が広がっている。水田整備事業や、鉄道敷設工事などで遺構は消滅している。
【案内】 えちぜん鉄道三国芦原線「番田駅」の南東約180mの道路横に「堀江公番田館跡」碑が建てられている。[マップコード264 129 864*38]。
【歴史】 堀江館は、堀江庄2500貫を領した堀江氏によって、長禄年間(1457~60年)に築かれた。
堀江氏は鎮守府将軍藤原利仁の後裔で、齋藤叙用の流れを汲み、利仁より九世の孫實嗣のとき、地名に因み堀江氏を名乗ったと云われる。
戦国時代、朝倉敏景に従い、永正三年(1506年)の加賀一向一揆宗徒との九頭竜川の合戦には堀江景実が参陣している。その後、堀江氏は本拠を下蕃村の下番堀江館へと移した。
永禄十年(1567年)景実が一揆と結託して謀反を企てているとの噂が流れ、朝倉義景は激怒し、合戦が起き、景実は父・景忠と共に応戦した。のち大和田真孝の仲裁で合戦は収束し、堀江父子は能登へ退去した
朝倉氏滅亡後、天正三年(1575年)に堀江藤秀(景忠を改名)は加賀一向一揆と共に越前に舞い戻り、杉津砦の守将をまかされるが、織田勢に寝返り、一揆勢を壊滅させた。
織田信長は藤秀の戦功を賞して、息子の利茂に加賀大聖寺の所領を与えた。しかし、藤秀は恩賞に不満をもっていたらしく、それが信長の耳に入り翌年四月に誅殺されたという。