若槻山城 (わかつきやまじょう)
所在地 長野県長野市若槻東条 2015.10.4
若槻山城 (わかつきやまじょう)
所在地 長野県長野市若槻東条 2015.10.4
登城ルート(緑線は車道/緑マークは番所跡)
標柱・登り口
5の郭
4の郭
3の郭
2の郭
主郭虎口
主郭・城跡碑・説明板
背後の堀切
番所跡
若槻山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高120m】
【案内・感想】 県道60号線「田中」交差点の西、約150mの「見晴の湯」(長野市上野1丁目1567)より北に林道を溜池の堤防を通って1.3km行き、左折後1km行ったカーブの先に「山城跡」登り口がある[マップコード54 401 130*16](地図)。
約510m登ると5郭跡があり、段々に4郭、少し狭い3郭、25m×35mの方形の2郭と連なり、標高678m比高約120mの尾根に主郭跡がある。東西25m南北55mの主郭跡は土塁が周囲に残り、説明板、城跡石碑が建てられ、主郭の北に3条の堀切(空堀)が残っている。また戦闘に備え「河原石」が多数置かれている。
主郭より390m比高107m登った標高785mの尾根に「番所跡」(地図)がある。番所跡は東西9m南北22mを土塁で囲み、巨石を配して尾根筋に堀切が残る。番兵を置いて山背よりの敵襲に備えた。
【歴史】 12世紀後半、鎌倉時代初期に若槻頼隆により若槻里城と共に構築されたと伝えられている。
頼隆は八幡太郎義家の孫にあたり清和源氏の直系である。父義隆は義家の7男で源頼朝の父義朝の身代わりとなって平治の乱で討ち死にした。頼隆は従五位下の位階を持ち伊豆守と称した。鎌倉御家人として相模国毛利庄より若槻庄の地頭職としてこの地に移り若槻氏の祖となった。
室町時代には高井郡の高梨氏に隷属して若槻庄もその知行地となった。応永十一年(1404年)信濃守護代細川慈忠の入国に反対し高梨氏と共に争い、このとき山城も落城した『市川文書』。
戦国時代、この地も甲越合戦に巻き込まれ、山城は上杉氏によって整備された。現在の形状は戦国山城の構造になっており、その後廃城となったが、広大な構造はそのまま残された。
また、山麓に蚊里田八幡宮のほか御平に正覚寺跡が残されているが、同寺も若槻氏の創建であり、中世寺院の特徴として土塁も築かれ、城館も兼ねていた。『若槻地区市制百周年記念事業実行委員会』説明板より。