横山城 (よこやまじょう) (興津城)(おきつじょう)
最寄地 静岡県静岡市清水区谷津町2-222 2016.2.6
横山城 (よこやまじょう) (興津城)(おきつじょう)
最寄地 静岡県静岡市清水区谷津町2-222 2016.2.6
登城ルート(緑線は車道)
登り口・説明板・城趾碑
城址碑
土橋
小曲輪石垣
五輪塔
主郭土塁
主郭
横山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 国道52号線「谷津」交差点の50m北より北西に約200m行くと表記番地の先に登り口があり、「横山城趾」の石碑(裏面に碑文)、説明板が建てられている[マップコード800 542 768*02](地図)。駐車スペースは少ない。
堀道を登ってゆくと、小曲輪と呼ばれる石垣のある平坦地がある。2段の郭を経て、登ると藪化した西曲輪がある。
その南を東に行くと堀切があり、急斜面を登ると比高約50mの山頂に主郭がある。藪化しているが西側から北側にかけて、一部刈られ土塁が残っている。又北東の虎口付近に崩れた五輪塔が祀られている。
鳥瞰図によると、東に2つの郭を経て二の曲輪があるが、藪が多く行けなかった。
【歴史】 入江氏(藤原氏)の一族の興津氏は、維道(又は近綱)を祖とし、「保元物語」に息津四郎、「承久記」の興津左衛門な名がある。
はじめ興津郷の地頭、後に美作守氏清の時には富士上方上野郷の地頭も兼ねていたことが、『大石寺文書』に見え、今川氏が駿河国守護として入部以来は、その被官となった。
延文年間(1356~61年)興津美作守は興津館(興津町本町字古御館)より、本拠をここに移し、山上に城を築き、山麓に土塁を巡らせた居館を構えた。
連歌師の宗長は興津氏と親交があり、しばしば城を訪れ、数首の歌が「宗長手記」に残されているが、大永五年(1525年)の項には、「興津横山の城にて、春の雲のよこやましるしなみの上」と記されている。
永禄十一年(1568年)十二月、甲斐の武田信玄の駿河侵攻により落城するまで、興津氏代々の居城であった。
武田氏は改修に着手し、翌十二年二月には完了し、穴山梅雪に守らせた。そして、この年正月今川氏真救援の為出兵した北条氏康の軍(薩埵山に布陣)と、四月二十九日に撤退するまで90日余にわたり興津川を挟んで対戦し、武田軍の拠る横山城に北条勢が来襲したり、逆に武田勢が薩埵山を攻めた記録も残されている。
その後、武田氏は横山城に城番を置き、支城の一つとして重要視したというが、天正十年(1582年)武田氏の滅亡と共に廃城となった。『興津地区まちづくり推進委員会説明板』より。