布市城 (ぬのいちじょう)
最寄地 富山県富山市布市803 2014.10.5 2014.10.23
布市城 (ぬのいちじょう)
最寄地 富山県富山市布市803 2014.10.5 2014.10.23
興国寺
興国寺由来看板
小柴家墓所
小柴家墓所
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 大田保の南部に築かれた平城で、興国寺(表記番地)の北東260mの水田内にある小柴氏の墓所一帯が城跡とされる[マップコード40 209 540*20] (地図)(標識は無く墓石で確認)。
布市は旧称「野の市」であり、飛騨街道と信濃往来が交差する交通の要地に市が立てられたことに由来する。
『蜷川の郷土史』によれば城跡は興国寺の北東250mに位置する水田内とし、現在は桃井氏被官の子孫という小柴氏の墓所がある。またこの水田内に明治二十二年まで毘沙門堂があった。この毘沙門堂へ土方雄久がたびたび参篭したと伝えている。
興国寺(布市803)に直常と奥方の位牌が安置され、境内に直常の墓と伝えられる五輪塔がある。
【歴史】 南朝暦興国五年(1344年)に越中守護となった桃井直常が築いたと云われ、周囲に桃井氏菩提寺の興国寺や同氏祈願所の龍高寺、幕府が諸国に作らせた越中国安国寺(廃寺)があった。
足利一門の斯波高経と桃井直常が覇権を巡り数十年にわたり激しい抗争を繰り広げられていたが、応安三年(1370年)には、南朝方の桃井直和(直常の子)が長沢城に籠もった。
越中国守護斯波義将(高経の子)はこれを攻め、両者は長沢にて戦い直和は討死し、桃井勢は飛騨国へと落ち延びた。
桃井氏が越中を去った後、戦国時代に畠山播磨守長光が入城した(『月岡郷土史』)というが、室町期の大田保は守護畠山氏と対立する管領細川家領であり、疑問が残る。
その後、慶長五年(1600年)に土方雄久が徳川幕府から布市以南1万石を与えられ、布布藩が成立すると、その陣屋がおかれたという伝説もある。同藩廃藩とともに廃城となったとみられる。