富山城 (とやまじょう) (安住城・浮城)
所在地 富山県富山市本丸1 2013.7.9
富山城 (とやまじょう) (安住城・浮城)
所在地 富山県富山市本丸1 2013.7.9
堀・模擬天守
模擬天守・石垣
虎口石垣
富山城址公園
前田正甫公像
千歳御門
富山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道41号線「城址公園前」交差点の100m北の左に有料地下駐車場入り口がある[マップコード40 385 716*25] 。南側に堀や石垣が修理保存され、「富山城址公園」(表記番地)となっている。
本丸跡に櫓門と複合連結式三重四階模擬天守(昭和二九年・RC造)が建てられ「富山市郷土博物館」となっている。また三重櫓を模した佐藤記念美術館(昭和三十六年)がある。
その西に富山の薬売りを広めた二代藩主「前田正甫(とし)公像」の銅像が建てられている。赤祖父家に移築されていた千歳御門が再び本丸東側に移築された(平成十九年)。平成二十年同じ面の地下駐車場の横に石垣が完成している。
【歴史】 室町時代の越中守護は三管領の畠山氏であったが越中には来任せず、東部を椎名氏に、西部を神保氏に守護代として治めさせた。
天文十二年(1543年)頃、東部の新川郡進出をもくろむ神保長職(じんぼうながもと)により築城された。
永禄三年(1560年)上杉謙信に攻められ増山城へ落ち延びた。その後富山城は上杉氏と一向一揆衆の争奪の的となったが、天正六年(1578年)長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入った。
天正十年(1582年)三月、長住は上杉氏に内応した家臣(唐人親広、小島職鎮、神保覚広)に欺かれ、城内に幽閉され失脚した。
代わって佐々成政が城主になり、富山城の大規模な改修を行なった。本能寺の変後、秀吉に離反した成政は天正十三年(1585年)白鳥城に陣を敷いた秀吉自ら率いる十万の大軍に包囲され降伏し、城は破却された。
越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、慶長十四年(1609年)火災で焼失、高岡城を築いて移り、富山城は家臣の津田義忠が城代として入った。
寛永十六年(1639年)加賀第三代藩主・前田利常は次男利次に十万石を与え分家させ、富山藩が成立した。
万治四年(1661年)幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、城下を整備し、以後富山前田氏13代の居城となり、明治維新を迎えた。
明治四年(1871年)廃城令により廃城となり、払い下げられた。堀も南側を残して埋められた。