久々利城 (くくりじょう)
最寄地 岐阜県可児市久々利1644‐1 2014.11.23
久々利城 (くくりじょう)
最寄地 岐阜県可児市久々利1644‐1 2014.11.23
登城ルート
千村陣屋跡・可児郷土歴史館
陣屋南側石垣
登り口・城址碑
大手曲輪・井戸
三の曲輪・二の曲輪切岸
三の曲輪・二の曲輪・本丸跡
二の曲輪・本丸切岸
本丸跡
出丸
出丸北堀切
久々利城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【案内・感想】 「郷土歴史館」(表記番地)敷地が、関ヶ原の戦いの後旗本になった千村良重により築かれた千村陣屋であり、南側に石垣が残っている。
その北の県道84号線に面して由来石碑、城址碑、説明板があり、登り口がある[70 268 084*80](地図)。
登って行くと大手門虎口の先に井戸のある大手曲輪があり、更に登ると三の曲輪があり、樹木が切り払われ、二の曲輪、本丸の切岸がよく確認できる。
三の曲輪の上段に二の曲輪、その上段に本丸跡がある。
本丸の北東に出丸がありその北面に堀切がよく残っている。比高約70mの本丸は東西約20m南北約30mの広さがあり、中央の樹に「本丸跡」の標識がある。
【歴史】 延元・正平年間(1336~70年)美濃国守護の土岐頼康の弟である土岐康貞が築城し、康貞を初代とし代々土岐三河守悪五郎を襲名した。
戦国時代の天文年間、久々利氏は金山城主斎藤正義に属していたが、正義は横暴なこともあり、天文十七年(1548年)に康貞の末裔・久々利頼興(悪五郎)は斎藤正義を久々利城に招き謀殺した。
頼興は東濃に勢力を誇ったが、天正十年(1582年)六月二日、本能寺の変が起きると、それまで金山城主森長可に従っていた東美濃の諸将が反旗を翻した。
天正十一年(1583年)久々利頼興は、豊臣秀吉と結んだ金山城主の森長可に金山城で謀殺され、久々利城は攻められ陥落した。
久々利城は森氏の家臣・戸田勘左衛門が城番となった。慶長五年(1600年)に森忠政が信濃川中島に転封となると、金山城と共に廃城となった。