大峪城 (おおがけじょう) (大掛城・大懸城・伊賀城)
所在地 富山県富山市五福3994 2014.10.5
大峪城 (おおがけじょう) (大掛城・大懸城・伊賀城)
所在地 富山県富山市五福3994 2014.10.5
五福小学校北側・説明板
説明板
校舎南西の土塁
校舎南側・切岸
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 県道59号線「五福小学校前」交差点先の市立五福小学校(表記番地)の敷地となり、校舎が建つ本丸跡に切岸、土塁の痕跡が僅かに残っている。北側入り口のグランド横に案内板が建てられている[マップコード40 412 459*78](地図)。(近年小学校は北側に移転し、「五福芝生スポーツ広場」となっている) 。
文化九年(1812年)に測量を行った富山藩士渋谷孝本・安達直章らの『越中冨山大カケ古城図』や『大峪之古城分間之図』に依ると、井田川に面した平城(流れが変わり、現在は面してはいない)で、主郭は一辺が三十八間の正方形であり、その南西と南東の隅には櫓が建てられ、堀を挟んで東に主郭の半分程度の長方形の郭が在り、その郭の北側には入り込んだ堀によって虎口が形成され、これらを堀で囲んでいた。更にこれらを堀で囲んだ総構えを有していた。
【発掘調査】 平成元年(1989年)に行われた発掘調査によって最大幅十四m、最深約3.5mの堀跡と主郭へ続く土橋が確認されている。また「城割」「城ノ下割」「西ノ輪割」などの小字名が城の名残を示しており、また「大工町」の小字名から周囲に城下町の存在が推定されると云う。
【歴史】 戦国時代、この地を治めていた神保長職によって築かれたと云う。その頃の動向については史料に詳らかでない。
天正十三年(1585年)豊臣秀吉が富山城に拠る佐々成政を討伐する為に出陣した(富山の役)。
富山城攻めの本陣となった白鳥城には前田利家の家臣・片山伊賀守延高、岡嶋一吉が拠っていたが、白鳥城を出て大峪城並びに安田城を改修し、白鳥城の出城として両城を守備した。
同年、成政が降伏し、その後は延高が城主となった。
慶長二年(1597年)片山延高は前田利長の命により呉服山(白鳥城の事か)の守備に就くが、強風の為に安田城にて居住する。この頃の大峪城の動向については不明である。
慶長四年(1599年)延高は利長の命を受けた石川源太、松田直憲によって大坂で殺害された。利家の死から僅か七日後の事であったが、利家の遺言状には延高には謀反の気配があるから油断しない様書かれており、それに従ったものと思われる。徳川家康が延高を高く評価し手を回していたからと云われている。
延高の後、大峪城には代官が置かれたが、その詳しい時期は不明であり、いずれにせよ関ヶ原の戦い前後までには廃城となっていたと思われる。