葛山城 (かつらやまじょう)
最寄地 静岡県裾野市葛山491 2014.6.12
葛山城 (かつらやまじょう)
最寄地 静岡県裾野市葛山491 2014.6.12
登城ルート
葛山館跡・土塁
仙年寺
葛山氏墓所
東の堀切
南側3号竪堀
西の堀切
二の丸跡
本丸跡
東曲輪
大手登城口
葛山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高60m】
【案内・感想】 仙年寺(表記番地)の南約150に葛山館跡があり、方形の曲輪を囲む土塁が良く残っている(地図)。
仙年寺の裏山が葛山城跡であり、本堂の西側より登るとすぐ葛山氏墓所(門には最後の領主・葛山信貞にちなんで武田菱の紋が刻まれている)がある。
そこより階段を登ると二重の「東の堀切」があり、東に行くと「東曲輪」「大手曲輪」と並び大手登城口がある[マップコード50 438 243*82](地図)。
堀切を西に行くと本丸下に「帯曲輪」があり南斜面に3、4号竪堀が残る。更に西に虎口がありその西に「西の堀切」4、5、6号堀切がある。その西が「水の手曲輪」となっている。
中央の虎口を登ると土塁の残る「二の丸」(約8アール)がある。東に一段高く比高約60mの「本丸」がある。本丸には四阿や城跡碑があり土塁が良く残っている。本丸の北に「畝状横堀」が残っている。城地は東西350m南北70m余である。
館跡と詰城は裾野市の指定史跡となっている。
【歴史】 葛山氏は、中臣(藤原)鎌足の流れをくむ藤原道隆の子・伊周(これちか)を祖とし、藤原惟康の次男・親康が大森に住し大森氏を名乗り、維康の三男・惟兼が葛山に住んで葛山氏を名乗ったとされる。
鎌倉時代には、源氏の直臣として仕え、葛山景倫(後の願性)は三代実朝に信頼とともに渡宋の命を受ける。
しかし、渡宋目前になって実朝が暗殺され、悲嘆にくれた景倫は主君の菩提を弔う為に高野山へ上がった。その時、金剛三昧院で心地覚心(法灯円明国師)と出会う。亡き主君への忠義を褒めた北条政子から、和歌山の由良を守護として与えられた。
室町時代、将軍家の直臣の奉行衆であり、守護職今川家とは同じ将軍に仕えるものとして従っていた。また、伊勢新九朗宗瑞(北条早雲)が駿河に下向してきた際にはよく助け、伊豆討ち入りや相模平定に関わった。この時の縁で、北条早雲の元へ葛山氏の娘(善修寺殿)が嫁ぎ、北条五代を支える北条幻庵が生まれた。
戦国時代、葛山氏は駿河国の守護今川氏に有力国人として仕え、氏堯・氏広・氏元と続き、朝比奈氏とともに両翼として重用された。
主君として今川家に忠義を尽くしながらも、今川・武田・北条に囲まれた難しい立地、また要衝として葛山氏の領土は、非常に厳しい局面を迎えていた。
その為、この三国間を生き抜くために様々な養子縁組を行い、武田氏には甥の御宿(みしゅく)友綱を、北条家とは北条幻庵を始めとする親戚関係をと、それぞれの勢力に人脈を要していた。
しかし、永禄三年(1560年)今川義元が桶狭間の戦いで倒れたことで、この均衡は崩れた。一時、北条氏や武田氏を頼っていた葛山氏元は武田信玄が駿河に侵攻する際には、武田氏に味方した。
氏元は朝比奈信置や瀬名氏らと武田方に内応し、翌、永禄十二年二月一日には武田家臣穴山信君とともに今川氏と同盟関係にある相模後北条氏の後援を受けた富士郡の富士信忠の守る大宮城(富士宮市)を共に攻めた(『静岡県史』資料編8 - 358号)。
葛山氏元は信玄の六男の信貞を養子とし家督を譲り、信貞は分郡領主として葛山城に赴任しておらず、在地支配は城代の御宿友綱が行っていたと考えられている。
しかし、天正元年(1573年)氏元は北条氏への内通の嫌疑で処刑された。氏元を殺された葛山一族は、当時最強と云われていた武田信玄と武田軍団に対して単独でクーデターを起こし、痛烈な反撃をしたが滅ぼされた。
天正十年(1582年)、織田信長の甲州征伐により、兄の武田勝頼は甲斐国内において滅亡し、信貞も小山田信茂と共に甲府の甲斐善光寺において自刃した。これにより葛山氏も滅亡し、廃城となった。