沓掛城 (くつかけじょう)
最寄地 愛知県豊明市沓掛町東門22−1 2014.12.12
沓掛城 (くつかけじょう)
最寄地 愛知県豊明市沓掛町東門22−1 2014.12.12
案内板
本丸・堀・橋
大手門跡・城址碑・説明板
本丸(左)・堀・諏訪曲輪
堀・二の丸
沓掛城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 「グループホームひびきの家豊明」(表記番地)の西に道路を挟んで「沓掛城址公園」駐車場がある[マップコード17 827 868*48]。
東西288m南234mで、侍屋敷の一部が駐車場となっている。南西に小高い諏訪曲輪があり堀で切られ本丸がある。
その南に大手門跡の土橋があり南東に一段下がって二の丸がある。周囲は堀が廻らされ、当時としては、比較的規模の大きな城であったといえる。堀の西に慈光寺(豊明市沓掛町東本郷68)がある。
【歴史】 正中の変の後、正中二年(1325年)後醍醐天皇が、沓掛の住人近藤宗光を召し出したという記録がある。
応永年間(1394~1428年)に近藤氏により築かれた(藤原義行との説もある)。近藤宗光と藤原義行との関係は定かではないが、室町時代を通じ、近藤氏が沓掛城主となっていたことは確かである。
戦国時代に入り、九代目の近藤景春は松平広忠の家臣となっていた。天文十年(1541年)頃より尾張国中に織田信秀の勢力が強くなり、しばしば三河へ出兵するようになると、近隣の土豪とともに信秀に追従した。
しかし、天文二十年(1551年)の信秀死後は二転して、鳴海城主山口佐馬助教継(のりつぐ)・教吉父子とともに今川義元の傘下に入った。
永禄三年(1560年)、駿河・遠江・三河の兵約2万5千の大軍を率いた今川義元は、五月十八日(新暦6月11日)、池鯉鮒(知立市)を出立して沓掛城に入った。
この時の城主は近藤景春であった。ここで義元は軍評定を開き、大高城への兵糧入れや各武将の部署の再確認を行ったものと思われる。
翌十九日朝、義元は本隊を従え沓掛城を出発した。一説にはこの時、義元は落馬し、側近があわてて輿に乗り換えさせたという。その後、義元は大高道を通って西方約4kmの桶狭間に入り、運命の桶狭間の戦い(1560年・永禄三年五月十九日)となる。
城主近藤景春は沓掛城に戻り、刈谷城攻めを行ったりしたが、五月二十一日、織田勢により城攻めを受け落城、景春は討死して近藤氏による支配は終わった。
代わって、桶狭間の戦いで勲功一番と称され、沓掛三千貫文を与えられた梁田出羽守政綱が城主となった。
天正三年(1575年)、簗田政綱は加賀天神山城主となって去り、その後は織田信照(信秀の十男)、川口宗勝(久助)が城主を勤めた。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて川口宗勝は西軍に参陣、敗戦後捕らえられて伊達政宗預かりとなった。ここで沓掛城は廃城となった。
宗勝はのちに慶長十一年(1606年)徳川秀忠に許されて、青菅(現・佐倉市)2千5百石を賜り旗本となった。