郷田砦 (ごうだとりで) (郷田桝形城)
最寄地 富山県中新川郡上市町柿沢336 2018.6.14
郷田砦 (ごうだとりで) (郷田桝形城)
最寄地 富山県中新川郡上市町柿沢336 2018.6.14
登城ルート(緑線は車道)
入口・駐車スペース・遠景
南側堀道
空堀・土橋
主郭南側・土塁
主郭(北側)
北側の供養塔
北側の腰郭
郷田砦跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高25m】
【感想】 弓庄城の北東約600mの比高約25mの桝形山に築かれている。主郭周辺は鬱蒼とした藪となっているが、空堀、土塁など確認できる。
【案内】 県道163号線より南西に行った表記番地の南西に農道があり駐車できる[マップコード144 314 705*64](地図)。
10mほど東に行くと道は二俣となり、右に登ってゆくと堀切に着く。左の供養塔横を北に行くと、竹藪となり空堀・土橋が見られる。その先は主郭で藪が密生し踏み込めない。
戻って、先ほどの二股を左に行くと同じく供養塔があり、その上段に郭、更に上段に主郭がある。
【歴史】 弓庄城の城主土肥美作守政繁は初め上杉謙信に従属していたが、天正六年(1578年)謙信が急死し、織田信長が越中に進出すると、織田方に従った。
しかし、天正十年(1582年)信長が本能寺の変で討たれると、再び上杉方に通じるようになった。織田方であった佐々成政は、その後天正十一年(1583年)にかけて越中支配のために上杉方がいる越後の西海岸まで侵攻した。
魚津城・小出城両城陥落後の天正十一年四月以降から成政の攻勢が本格化した。
佐々成政は弓庄城主・土肥政繁を攻める為、4つの砦を築くが日中城や郷田砦はその付城であったといわれる。
土肥氏は弓庄城で籠城を続けたが、豊臣秀吉が賤ヶ岳の合戦による戦後処理として成政の越中支配を認めた結果、上杉方に通じていた政繁は弓庄城を明け渡して越後の糸魚川へと退去した。