野尻城 (のじりじょう)
所在地 富山県南砺市野尻850 2014.10.24
野尻城 (のじりじょう)
所在地 富山県南砺市野尻850 2014.10.24
徳仁寺・説明板・碑
野尻城址碑
説明板
徳仁寺本堂
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 徳仁寺(表記番地)境内で、山門左に大きな「野尻城址」の石碑と説明板が建てられている[マップコード122 380 000*16] (地図)。城跡の面影は無い。
昭和四十六年(1971年)7月20日、南砺市の文化財(史跡)に指定された。
【発掘調査】 平成三、四年の発掘調査では、南北朝から戦国時代の井戸跡や陶磁器類、鍛冶関連遺物が出土しており、戦国時代にも使用された可能性がある。
【歴史】 築城年代は不明。木曽義仲と共に平家と戦った在地豪族・野尻氏が拠っていたと云う。
野尻氏は藤原利仁の後裔である斎藤氏の流れを汲むとされるが、古代の在地領主で越中国司も務めた利波臣の後裔とする説もある。少なくとも中世に越中国砺波郡で勢力を誇った石黒氏を始め井口氏や宮崎氏等と同族と考えられている。
南北朝時代初頭、野尻氏は越中国守護名越時有の子・名越時兼と共に中先代の乱に参加したり、足利尊氏の御教書を得た越中守護井上俊清に従って挙兵して越中国司中院定清と戦い石動山にて敗死させたりと活発に動いている。
正平年間(1346~70年)になり南朝方の有力者だった越中守護・桃井直常が庄ノ城(壇城)を拠点として周辺を支配すると、野尻氏は井口氏らと共に直常の配下となり各地を転戦し、野尻城は庄ノ城の支城として機能した。
正平十七年(南朝暦・1362年)、同二十四年(1369年)と二度にわたって北朝方の攻撃を受けた。なお、文和三年(1354年)に加賀国守護富樫氏春が幕府より越中野尻庄の地頭職を与えられている。
その後の野尻氏の動向は窺えないが、文明十三年(1481年)に一向一揆勢に攻められて城主が降伏したという。同年には砺波郡に勢力を誇った福光城主・石黒光義が一揆勢力の瑞泉寺らと戦い敗退(田屋川原の戦い)しており、その余波を受けたのであろう。
その後は一向一揆勢力下にあった様で、廃城年代は戦国時代後期と思われる。