今尾城 (いまおじょう)
所在地 岐阜県海津市平田町今尾4437−3 2019.6.21
今尾城 (いまおじょう)
所在地 岐阜県海津市平田町今尾4437−3 2019.6.21
説明板
今尾小学校・説明板
今尾小学校
南側堀跡
東側堀跡
西願寺の山門(移築城門)
長勝の正室の墓(五輪塔)
今尾城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 平田町今尾の微高地にある海津市立今尾小学校用地となっており、遺構はほとんど無いが、東から南にかけて堀跡が見られる。
【案内】 海津市立今尾小学校(表記番地)敷地となっており、駐車場が利用できる[マップコード78 285 832*84]。校門先に説明板が建てられ、校庭の南から東にかけて堀跡が見られる。
常栄寺(海津市平田町今尾3118)には城主市橋長勝の正室の五輪塔墓がある[78 285 401*20]。常栄寺は慶長十年(1605年)藩主市橋長勝により正室の菩提を弔うため開基した。
西願寺(海津市平田町今尾2982)の山門は、今尾城の門の一つを移築したものと云われる。
【歴史】 文明年間(1469~87年)に斎藤氏の家臣・中島重長が築城し、以降4代・70年以上にわたって居城としたとされる。
永禄十年(1567年)には、織田信長の命で駒野城主だった高木貞久が城主となった。
この後は森寺氏や戸倉氏が居城したとされ、翌天正十二年(1584年)には小牧・長久手の戦いの恩賞として吉村氏吉に今尾城一帯が与えられた
天正十五年(1587年)青柳城(大垣市)から移った市橋長勝が1万石で領有した。
長勝は、織田・豊臣を経て徳川家康に仕え、慶長五年(1600年)七月、家康の上杉征討に加わり東国に進軍した。
その後、石田三成の挙兵に際し、福島正則の命を受けた長勝は、八月十六日、松ノ木城の徳永寿昌(ながまさ)らと、福束城の丸毛(まるも)兼利を攻めた。
『美濃国諸旧記』によれば、2千余の軍勢を率いた長勝、寿昌らは、大藪村・大榑(おぐれ)村(いずれも輪之内町)の戦いで、夜半に敵村に忍び込み村人を味方につけ、火を放って勝利したという。兼利は城を捨て大垣城へ敗走した。
八月十九日には高須城を攻め、城主高木盛兼を追放し、東軍の勝利に貢献した。
九月十五日の関ヶ原の決戦当日には、長勝は寿昌らと共に金屋(養老町)に駐屯し南宮山の南端に陣を敷く西軍勢に備えた。
慶長十三年(1608年)市橋長勝は伯耆国矢橋藩(八橋城)に移封された。代わって竹腰正信が当地で今尾藩主となると今尾城は廃されて跡地に今尾陣屋が設けられ、敷地の南・東・北に堀を、西には堤を築いた。
正信は元和五年(1619年)に1万石を加増されて3万石となった。以降は竹腰氏代々は犬山藩の成瀬氏とともに尾張藩の付家老として藩政を支えた。陪臣のため今尾藩は正式な藩ではなかったが、明治元年(1868年)に立藩が認められ、1万石を尾張藩に返還して2万石の藩となった。明治四年(1871年)の廃藩置県で廃藩となった。