駿府城 (すんぷじょう) (府中城・静岡城) (日本100名城41)
所在地 静岡県静岡市葵区駿府城公園1 2011.9.12 2013.9.8 2014.6.13
駿府城 (すんぷじょう) (府中城・静岡城) (日本100名城41)
所在地 静岡県静岡市葵区駿府城公園1 2011.9.12 2013.9.8 2014.6.13
北御門橋
本丸・徳川家康公像
内堀
東御門櫓門
東御門高麗門
中堀・巽櫓
中堀・坤櫓
中堀(南西側)
二の丸橋(南入口)
北側外堀・三の丸草深門跡
駿府城 天守跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 中堀と石垣で囲われた約350m四方の本丸・二の丸が駿府城公園(表記番地)となっている。堀は回の字状に三重で配置され、内堀は公園内の南東に一部残り(巾23~30m・)他は埋められている。
東西南北に4枚の橋が中堀に架かり、南東の隅に巽櫓(平成元年)が、その北に東御門の高麗門・櫓門が復元(平成八年)されている。
徳川家康公像の背後、公園中央の北西に五重七階の天守があったが、寛永十二年(1635年)に焼失している。南西の坤(ひつじさる)櫓は平成二十六年(2014年)復元された。
二の丸の周囲は巾60~120mの外堀(東や南の一部分は埋められた)をめぐらした三の丸敷地であり、大手門桝形の西に県庁、小学校、中学校始め公共の建物が建てられている。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(41番)に選定された。
【歴史】 駿府城は天正十三年(1585年)徳川家康が築城を開始し、浜松城より移った。
天正十八年(1590年)豊富秀吉の小田原征伐後、家康は江戸に移封となり、中村一氏が大名として入城した。
慶長五年家康の異母弟・内藤信成が城主に任じられ、慶長十一年(1606年)近江長浜城主に移封された。
この後、江戸幕府を開いた家康が慶長十二年(1607年)将軍を退き駿府城に移り住むために、天正期の城を「天下普請」として拡張、修復した。慶長十四年家康の第十子・徳川頼宣が城主となり、元和二年(1616年)家康は死去した(享年75歳)。元和五年(1619年)頼宣が和歌山城主に移封された。
寛永元年(1624年)秀忠の第二子・徳川忠長が駿府城主となった。寛永八年(1631年)忠長が乱心、兄である徳川家光によって改易と蟄居を命じられ、翌年忠長が高崎城に於いて自刃した。
以後、駿府は天領となり駿府城代・駿府定番(副城代に相当)が置かれた。寛永十二年(1635年) 城下の火災が城に延焼し、大半を焼失した。寛永十五年(1638年) 御殿・櫓・城門等が再建されるが、城主がいないため天守は再建されず、幕末を迎えた。
慶応四年 (1868年) 江戸城開城に伴い徳川慶喜は退隠。養嗣子田安亀之助 (徳川家達) が駿府城主となり駿府城に移った。
明治二年(1869年) 江戸が東京に、駿府が静岡に改名された。廃藩置県により、静岡藩(駿府藩から改称)知県事徳川家達が東京に移った。
明治二十九年(1896年) 歩兵第三四連隊の誘致に伴い、本丸堀(内堀)は埋められ、城郭施設は凡て取り壊された。
昭和二十六年(1951年) 公園の名称を公募により駿府公園と命名された。