岐阜城 (ぎふじょう) (稲葉山城) (国の史跡・日本100名城39)
所在地 岐阜県岐阜市天主閣18 2011.6.4 2016.10.24
岐阜城 (ぎふじょう) (稲葉山城) (国の史跡・日本100名城39)
所在地 岐阜県岐阜市天主閣18 2011.6.4 2016.10.24
登城ルート(緑線は車道)
登り口
伊奈波神社跡
搦手虎口
隅櫓
本丸石垣
天守台石垣
三重四階復興天守
長良川上流方面
井戸跡
岐阜城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★ 比高310m】
【感想】 5年前には妻とロープウェイで登ったが、今回は一人で、水の手道を登った。2.3kmの歩行距離はさすがに息が上がった。
伊奈波神社跡で「馬の背道」と分かれるが、馬の背道は帰りに使ったが、足を滑らせるほどの急な岩の道であった。
道三や信長もこの道を登り降りしたのだと思うと、健脚ぶりが窺い知れる。
【案内】 国道256号線「長良橋南」交差点の北より路側帯に入り、国道下を通って東に行き、100m先を右折すると、岐阜公園第1駐車場(有料)がある[マップコード28 648 877*07](地図)。
横断歩道橋を渡って「岐阜公園」の山側に登り口がある(地図)。伊奈波神社跡で「めい想の小径」、「馬の背登山道」の2ルートに分かれる。
ロープウエイの場合、100m南の金華山麓駅より山頂駅に着き、展望台レストラン横を通って、北東に尾根を250mほど歩く。
山頂駅より比高約50mの金華山山頂に本丸跡があり、金の鯱を戴く三重四階天守(RC造復興天守、昭和三十一年)が建てられ、また天守の東南東50mに隅櫓(岐阜城資料館、昭和五十年)が彦根城を参考に復元されている。
天守四階からは夕日に映える長良川の蛇行が眺望できる。昭和三十一年(1956年)7月25日 鉄筋コンクリート造で三層四階建ての復興天守が落成。天守閣の設計は加納城御三階櫓の図面や古文書を参考に城戸久(名古屋工業大学名誉教授)が設計、大日本土木が施工した
本丸の下段に岩を四角にくりぬき、非常時の雨水を貯める井戸跡が残っている。北側に搦手虎口があり水の手道につながっている。
又、麓の百曲り登山道を登ると間もなく、居館跡がある。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(39番)に指定された。平成二十三年(2011年)2月7日、国の史跡に指定された。
【歴史】 建仁元年(1201年)二階堂行政が稲葉山に築いたのが始まりとされている。
以後行政の娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、その弟稲葉光資が城主となり支配した。二階堂行藤の死後廃城となる。
15世紀中ごろ、美濃守護代斉藤利永が城を修復し居城とした。大永五年(1525年)斉藤氏家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして稲葉山城を攻め支配した。
新左衛門尉が没すると、その子・長井新九郎規秀(のち斉藤利政、出家し道三)が後を継ぎ城主となった。
天文八年(1539年)守護代の斉藤利政が稲葉山山頂に城を造り始めた。天文二十三年(1554年)利政は城と家督を嫡子・斉藤義龍に譲り、剃髪し道三と名乗った。
弘治二年(1556年)四月義龍は長良川の戦いで道三を討取った。永禄四年(1561年)五月義龍の急死により龍興が13歳で家督を継ぎ城主となった。
同年六月十四条の戦いに勝利した織田信長が稲葉山城を攻めたが敗退した。永禄七年二月斉藤家の家臣の竹中重治と安藤守就が造反し挙兵、稲葉山城を攻め、龍興は城を去り竹中らが半年間占拠した。
永禄十年(1567年)九月稲葉山の戦いで龍興は敗れ長良川を舟で下り伊勢長島に逃れ、勝利した織田信長は小牧山から移り、岐阜城と改称、天下統一を目指した。
天正四年(1576年)信長は嫡子織田信忠に家督と城及び美濃尾張の二ヶ国を譲った。
天正十年六月二日(1582年6月21日)本能寺の変で信長・信忠が死去すると、家臣の斉藤利堯が岐阜城を乗っ取るが、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると信忠の弟・織田信孝に降伏した。
天正十一年四月信孝は長島城主・滝川一益と呼応し再度挙兵するが、兄信雄に岐阜城を包囲され降伏、信孝は切腹させられた。
同年五月池田恒興が13万石で美濃国大垣城主となると、池田元助が岐阜城主となった。天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いで池田恒興・元助が討死したため恒興の次男・池田輝政が城主となった。
天正十九年(1591年)転封により輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となった。
文禄元年(1592年)秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国13万石を領有し岐阜城の城主となった。
慶長五年織田秀信は石田三成に呼応して西軍に付き、関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城に籠り、福島正則や池田輝政に攻められ落城、自害しようとするが、輝政の説得で降伏した(五年後に死去)。
慶長六年(1601年)徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、岐阜城の南南西4㎞に加納城(現在、加納公園内)を築城させた。
明治四十三年(1910年)5月15日 復興天守が再建されるが、昭和十八年(1943年)2月17日 早朝に失火のため焼失した。