諏訪原城 (すわはらじょう) (牧野城・牧野原城・扇城) (国の史跡)
所在地 静岡県島田市金谷1185 2014.6.13
諏訪原城 (すわはらじょう) (牧野城・牧野原城・扇城) (国の史跡)
所在地 静岡県島田市金谷1185 2014.6.13
説明板
大手曲輪・城跡碑
二の曲輪中馬出・三日月堀
二の曲輪
内堀・井戸
本丸跡・天守台地
外堀・二の曲輪南馬出
二の曲輪東内馬出への土橋・外堀
諏訪神社
二の曲輪東内馬出
諏訪原城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道234号線より分岐を旧東海道に入り東に行くと、城跡入口があり、駐車場はその先130mにある[マップコード83 824 470*70](地図)。
西の茶畑は大手曲輪で「今福浄閑戦死墓塚」の碑が立てられ、「武家屋敷跡」がある。外堀に沿って五ヶ所の丸馬出が配置され、夫々の丸馬出の外側に三日月堀がある(地図)。
土橋を渡ると南北に細長く二の曲輪(地図)があり外堀側に土塁が残る。
内堀の土橋を渡ると本丸であり、土塁が一周巡らされ、中央に小高く天守台地がある。内堀の南は水の手曲輪で「カンカン井戸」がある。
二の曲輪南馬出に諏訪神社(表記番地)が祀られている。城のすぐ南を東海道が通り、東の金谷坂を下ると大井川を跨いで、駿河国に入る交通の要衝であった。北と北東は急斜面となっており、北東に本曲輪を置き扇状に内空堀・二の曲輪・外空堀・馬出(五ヶ所)があり西に大手曲輪がある。
昭和二十九年(1954年)1月30日、城跡の一部が静岡県の史跡に指定され、発掘調査を経て昭和五十年(1975年)11月25日には国の史跡に指定された。
平成十四年(2002年)12月19日、一部区域が追加指定を受けている。現在の史跡指定地は、南北約580m、東西約1450m、約11万3千㎡に及んでいる。
【歴史】 永禄十二年(1569年)、駿河・遠江を領していた今川氏真(うじざね)が掛川城で武田氏と徳川氏に挟撃され滅亡し、駿河は武田氏に、遠江は徳川氏の所領となった。氏真は北条氏を頼って落ち延び、後に家康の庇護をうけた。
武田氏と徳川氏は間もなく争うようになり、元亀二年(1571年)に武田氏当主・武田信玄は遠江南東部の高天神城を攻撃した。このときは落城させることができず撤退したが、翌、元亀三年(1572年)には徳川氏に大攻勢をかけ、二俣城などの諸城を落城させ、さらに本拠地・浜松城から討って出た徳川家康を三方ヶ原の戦いで破った。
翌、元亀四年四月(1573年5月)、信玄は病死するものの、跡目を継いだ武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。
天正元年(1573年)の諏訪原城の築城もその一環であり、普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豐に命じ、東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせたという。その後も勝頼は遠江への攻勢を強め、天正二年(1574年)には主要拠点であった高天神城を手中にした。
ところが天正三年(1575年)五月、長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に大敗した。
徳川家康は直ちに反攻に転じて三河・遠江の武田氏の各拠点の攻略に乗り出し、諏訪原城にも攻撃を仕掛けた。一ヶ月余の攻防戦が繰り広げられたが、同年八月、城主今福浄閑斎が討死し、残った城兵は夜陰に紛れて田中城に逃亡して落城した。
徳川家康は牧野城と改名し、天正四年(1576年)今川氏真(うじざね)を城主とし、松平家忠らに補佐させ、高天神城攻撃の拠点とした。天正九年(1581年)高天神城が落城した。
天正十年(1582年)三月、武田氏が滅亡すると牧野城の存在意義が薄れ、天正十八年(1590年)に廃城となった。
明治維新を迎えると、元将軍の徳川慶喜が駿府に配されると慶喜を慕って随従した旧幕臣たちが、自活のために荒廃していた牧野城周辺に移住して開墾し主に茶畑とした。
現在も城址一帯は茶畑となっているが、比較的保存状態が良く、大掛かりな堀や曲輪などが残っている。