黒川城 (くろかわじょう) (国の史跡)
最寄地 新潟県胎内市下赤谷387−1 2016.10.8
黒川城 (くろかわじょう) (国の史跡)
最寄地 新潟県胎内市下赤谷387−1 2016.10.8
登城ルート
県道横の登り口
尾根の標識
西尾根1番目の堀切
2番目の堀切
3番目の堀切
石積土塁・堀切
二の丸
主郭・標柱
主郭背後の堀切
黒川城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高230m】
【感想】 胎内川右岸の支流・戸ノ裏川と大沢川に挟まれた、高坪山から伸びる標高301mの尾根頂上にある。
連郭式の山城で堀切や石積土塁が残っている。所要時間は40分ほどかかるが、頂上からは胎内市の田園風景や遠く日本海が望める。
【案内】 道の駅「胎内」(表記番地)に駐車し、「樽ヶ橋」を渡った「樽ヶ橋」交差点を右折、県道53号線を東に約70m行き左側に東北電力「No31」鉄塔管理道路を使う[マップコード157 834 298*87](地図)。入るとすぐ、「←黒川城」看板があり、左に少し行き、鉄柵の手前を右に登ってゆく。
しばらく行くと電力鉄塔管理道路と分かれ、左に登り、ピークを越えて下り、再び登り尾根に着く。標識があり、右に尾根道を延々とアップダウンを繰り返し登ってゆく。
深い見応えのある堀切が3条あり、石積土塁、掘切が残っている。二の丸は二段になっており、しばらく行くと馬返し郭がある。急な坂虎口を登ると、標高301m比高約230mの尾根頂上に二段になった細長い主郭がある。その東に堀切がある。所要時間は40分ほどかかった。
南東2.2㎞に胎内川を挟んで鳥坂城があり、昭和五十九年(1984年)10月4日、「奥山荘城館遺跡」として「鳥坂城跡」と共に、国の史跡に指定されている。
【歴史】 建治三年(1277年)、三浦氏一族の和田茂長は祖父時茂より奥山庄北条を分与され、下館に居館を構え、その子兼連は黒川氏と称した。
観応二年(1351年)、観応の擾乱で、黒川茂実は足利尊氏方として駿河薩捶峠の戦いで軍功を挙げた。
足利直義(ただよし)方の上杉憲顕は正平七年(1352年)、黒川城を大軍で攻め、茂実は奮戦の甲斐なく落城・降伏した。
応永三十年(1424年)、黒川基実の時、滑沢氏が黒川城に夜襲をかけ、基実は胎内川の並槻河原で戦ったが、戦乱の中、自刃した。
永正四年(1507年)、守護代の長尾為景が守護・上杉房能に反乱、房能を攻め滅ぼした。
10代将軍足利義稙(よしたね)は関東管領・上杉顕定に為景討伐を命じた。黒川基実の子氏実は長尾為景に従い戦った。
天文七年(1538年)、守護上杉定実の養子問題をめぐり、鳥坂城主の中条藤資は自分の妹と伊達稙宗の間に生まれた子・時示丸を養子にすることを企て、黒川氏をはじめ色部氏、本庄氏など揚北衆の殆どが反対し、対立した。
この中条藤資が、為景の子で守護代の長尾晴景に対抗し、栃尾城の戦いや黒田秀忠討伐で名を馳せた景虎(後の上杉謙信)を守護代職に擁立することを企てた。
黒川清実はこれに対抗して晴景側についた。やがて景虎が晴景の養子として守護代を継ぐと、黒川清実は景虎の配下として川中島や本庄城の本庄繁長の叛乱制圧などに従軍した。
天正六年(1578年)、謙信の死去により起きた御館の乱では、中条氏が景勝側に与したのに対抗して上杉景虎側につき、鳥坂城を攻めたが、逆にその間隙を衝いて中条氏の一族の築地資豊に攻められた。
慶長三年(1598年)の上杉景勝の会津移封により黒川氏も会津に移り、黒川城は廃城となった。