日宮城 (ひのみやじょう) (火宮城・二上山城・橋下条城)
所在地 富山県射水市日宮325 2014.10.5 2014.10.23
日宮城 (ひのみやじょう) (火宮城・二上山城・橋下条城)
所在地 富山県射水市日宮325 2014.10.5 2014.10.23
薬勝寺にある日宮城跡碑
薬勝寺本堂南曲輪
薬勝寺裏の本丸跡
南側切岸・墓地
日宮社石段・説明板
説明板
日宮社
日宮城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 城跡には薬勝寺(表記番地)が建てられており、北側の石段(射水市橋下条324の南)を登った左に高さ40㎝ほどの「日宮城跡」の石碑がある[マップコード40 430 163*81] 。
本丸跡の本堂の裏に曲輪、空堀、土塁が残っている。一段下がった南には墓地がある。
薬勝寺の西50mに谷を隔てて日宮社があり、案内板が鳥居の左側に建てられている[マップコード40 430 129*81] 。日宮社の周囲は崖となり社殿の周囲に土塁の痕跡がある。
【歴史】 築城年代は不明だが、戦国時代に越中国の守護代であった神保氏の当主神保長職が、永禄五年(1562年)に増山城に移る迄、拠点としたという。
長職が増山城へ移ると、富崎城等と同様にその支城として機能していた。城主としては神保源七郎等の名が伝わっている。
父慶宗の代に没落した神保氏は長職の代になって急速に勢力を拡大した。天文十二年(1543年)頃、富山城を築城した辺りから越中国新川郡を領していた椎名氏との激しい領地争いが始まった。
これは椎名氏を従属させていた隣国の越後国守護代長尾氏にとっても看過出来ない情勢であり、永禄三年(1560年)に長尾景虎(上杉謙信)が越中へと侵攻した。
この時富山城と共に日宮城も落城し、長職は敗れて増山城に落ち延びた。長職はこの後再び勢いを取り戻すが、東には武田信玄と組んだ椎名氏、その東には上杉氏(長尾氏改め)、振り返って西には一向一揆勢が居た。
家臣は親上杉派、親武田・一向一揆派に分かれて争い、実権は徐々に親上杉派の小島職鎮に奪われて上杉方への従属化が進み、長職の死後には家臣の大部分が上杉氏の家臣となった。
子の長住は武田方に付き、追放された。(神保長住は転々とした後、天正六年(1578年)織田信長の後ろ盾を得て富山城に入っている)。
元亀三年(1572年)、武田信玄の調略に応じた加賀国、越中国の一向一揆が侵攻し、同年五月二十四日から日宮城は一揆勢の猛攻に遭った。
日宮城の守将であった神保覚広は越中国新庄城主鯵坂長実に援軍を要請し、上杉方は長実や山本寺定長等を援軍として派遣するも、辿り着く前に呉服山で一揆勢の迎撃に遭い退却、そこを追撃されて、惨敗した。
援軍が期待出来なくなった守将達(神保覚広、小島職鎮、安東職張、水越職勝)は同年六月十五日に開城し、一揆勢と和議を結んで能登国石動山天平寺へと落ち延びた。
これによって勢い付いた一揆勢はそのまま白鳥城を攻め、富山城(翌年に謙信によって再度攻略された)をも落とした。
日宮城はその後史料から姿を消し、まもなく廃城となったと思われる。