虚空蔵山城 (こくぞうさんじょう) (村上連珠砦)
所在地 長野県上田市上塩尻/埴科郡坂城町南条 2020.10.18
虚空蔵山城 (こくぞうさんじょう) (村上連珠砦)
所在地 長野県上田市上塩尻/埴科郡坂城町南条 2020.10.18
登城ルート
鞍部
西側堀切
北側2郭
西側の主郭・説明板・鳥観図
東側の5郭
堀切・7郭(右)
8郭・三角点
東側の岩場
東側の堀切・積城へ
虚空蔵山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高660m】
【感想】 上田市と坂城町の境に位置する標高1077mの虚空蔵山に築かれている。
鳥観図の建っている平坦地が主郭で、意外に狭く南側が岩場となっている。
主郭の西側に大堀切があり、東側に堀切を挟んで傾斜地が階段状に並んでいる。三角点のある8郭は物見に利用されたと思われ、上田城や千曲川に沿った上田市街が一望できる。
【案内】 和合城から尾根を東へ行き、陣場鳥越山を越え、約800m行くと鞍部に物見城への標識がある(地図)。
さらに東へ100m程階段を登ると、ケムリの城への案内標識がある(地図)。
そこから縦走路を東へ約300m行くと、高津屋城があり、さらに縦走路を東へ約450m行くと、鳥小屋城に着く。
鳥小屋城跡から南東に比高40mほど下り、鞍部から急な斜面をロープに掴まって登って行くと、細い西尾根に着き、少し行くと大堀切がある。
主郭は説明板の建てられている所で、北側に一段下がって帯状の2郭、3郭があり、堀切で区分した東側にやや傾斜した5郭があり、さらに東に7、8郭と並んでいる。最高所の8郭に三角点がある。
和合城から虚空蔵山城を経て亀井城まで、登り口から片道4時間はかかり、帰路も含めると6時間ほどの余裕をみる必要がある。
実は12時半ころ登山を開始したが、帰りは18時を過ぎ、和合城東の下りでは真っ暗になった(スマホの明りで、ガレ石に躓きながら何とか下山できた)。
【歴史】 天文11年(1542年)頃、葛尾城主村上氏が武田氏の侵略に備えて築城した村上連珠砦の中心城であった。
天文二十二年(1553年)武田晴信に攻められた村上義清は長尾景虎のもとへ逃がれた。
弘治三年(1557年)五月、長尾景虎(謙信)は武田晴信(信玄)と戦うため、坂城南条の岩鼻(和合城)まで進撃した。
永禄六年(1563年)武田氏の家臣・多田三八郎昌澄(後の昌利)が虚空蔵山城主となる。
天正十一年(1583年)正月頃、上杉氏は真田氏に備え、虚空蔵山城を改修したという。同年三月十五日、上杉氏の家臣・島津忠直が虚空蔵山城に詰める。
同年三月二十一日、真田昌幸は虚空蔵山を攻め上杉氏の兵を破る。
同年四月十二日、徳川家康が甲府に着陣したことを受け、上杉景勝は家臣の岩井に虚空蔵山へ援軍を送るよう命じる。
同年四月十三日、上杉景勝は島津左京亮に命じ虚空蔵山から真田氏の上田城取り立て(構築)を監視させ、北信濃4郡(水内・高井・更科・埴科)の兵を虚空蔵山に結集させ上田城普請の阻止を狙ったと云われる。
同年四月十九日、虚空蔵山城から麻績城防衛に転じた上杉方に家康に臣従していた小笠原貞慶は大敗した。
四月二十六日、島津左京亮(泰忠)が虚空蔵山での横目(監察官)に任じられた。『現地年表より』。