上田城 (うえだじょう) (尼ヶ淵城・真田城)
所在地 長野県上田市二の丸2 2013.7.7
上田城 (うえだじょう) (尼ヶ淵城・真田城)
所在地 長野県上田市二の丸2 2013.7.7
石垣・西櫓
石垣・ 南櫓
東虎口櫓門・本丸南櫓
真田神社
本丸跡石碑
本丸北側内堀
上田高校正門
三の丸惣堀
上田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 北陸新幹線・しなの鉄道「上田駅お城口」より西へ約700mゆくと「上田城跡駐車場」[マップコード177 239 828*46](地図)がある。
駐車場のある公園広場から東西に三段の南面石垣や、二重の西櫓、北櫓・本丸南櫓(昭和二十四年移築)が望める。
公園西から登ると西櫓がある。南の石垣の上に真田神社が建てられ、北に「戊辰役上田藩従軍記念碑」や「上田城跡本丸跡」の石碑が立つ本丸跡がありそれを東、北、西と馬蹄形の内濠と土塁が囲んでいる。
その周りが、野球場、陸上競技場、上田招魂社、プールや市民会館などのある広大な二の丸跡である。
南東に北櫓と本丸南櫓が移築され東虎口櫓門(平成六年復元)が復元され内部も公開されている。虎口の東に二の丸があり、さらに東に三の丸大手門跡がある。
又上田藩主屋敷門が上田高校正門(上田市大手1-4-32)として移築され、三の丸惣堀がある。
【歴史】 武田氏の旧臣の真田昌幸により天正十一年(1583年)築城を開始した平城である。
天正十三年、次子真田信繁(幸村)を人質に送り上杉氏に臣従し、上田城において徳川軍七千を迎え撃ち、撃退した(第一次上田合戦)。
慶長五年(1600年)徳川家康率いる上杉討伐軍を離脱した昌幸が石田三成の西軍に与し、2千の兵力で上田城に籠城。徳川秀忠率いる東軍3万8千を迎え撃ち、守り抜いた(第二次上田合戦)。
慶長六年(1601年)真田昌幸・信繁は紀伊国九度山に配流となり、上田城は徳川の手で壊され、徳川側に付いた嫡男・真田信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館を構えた。
元和元年(1615年)真田家は松代に移封された。元和八年(1622年)代わって仙谷忠政が入り、寛永三年(1626年)より再建が始められたが、寛永五年(1628年)忠政の死により中断される。
以後仙谷氏三代の後は、松平氏が明治維新まで城主を務めるが、本格的な再建は行われなかった。