守山城 (もりやまじょう)
最寄地 愛知県名古屋市守山区市場4‐45 2014.12.12
守山城 (もりやまじょう)
最寄地 愛知県名古屋市守山区市場4‐45 2014.12.12
宝勝寺
宝勝寺北の空堀(竹藪)
櫓台
櫓台上の守山城趾碑
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 宝勝寺(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード4 414 280*78]。
本堂北に竹林に覆われた土塁、空堀が残り、その先に櫓台があり、その上に「守山城趾」の石碑が建てられている(地図)。
平山城で、規模は東西58m南北51m、四方には堀がめぐらせてあったと云われている。
【歴史】 大永元年(1521年)、今川氏豊が那古野城を築いた際に、小幡城・川村城に対応して、松平信定が築城した。
大永六年(1526年)、連歌師宗長が館で松平信定の新知行祝の千句連歌会を催し、「花にけふ風を関守山路哉」と守山を詠んだ発句が宗長手記・下巻に記されておりこれが「もりやま」が「守山」と記された初見である。
『徳川実記』や『三河物語』などによると、天文四年(1535年)には織田信秀の弟信光の居城となっていたが、信光の内応により松平清康が着陣した際、世に言う「守山(森山)崩れ」が起きた。
『信長公記』によると、弘治元年(1555年)、信長・信光により清洲織田氏(織田大和守家)の織田信友が殺害された後、清洲城に入った信長より、信光が那古野城を譲られて移ると、代わりに信光の弟の信次が入った。
しかし早々に家臣洲賀才蔵が信長の弟秀孝を殺害するという事件を起こしたために出奔した。
城下は、信長の弟で秀孝の兄である信行(信勝)の兵により焼き払われた。城には信次の重臣角田新五らが立籠もったが、佐久間信盛の働きにより信長の異母弟信時を城主とすることで決着した。
しかし、信時は他の家臣を重用したため角田新五により切腹させられ、城には再び新五一派が立籠もった。その後、帰参を許された信次が城主に復帰した。
信次は天正二年(1574年)、長島一向一揆戦において戦死した。 廃城の時期は、桶狭間の戦いの後とも、後に城主に復帰し信次の死後とも、長久手の戦い(天正十二年・1584年)の後とも云われている。