飯羽間城 (いいばまじょう)
所在地 岐阜県恵那市岩村町飯羽間 2014.11.7 2017.8.23
飯羽間城 (いいばまじょう)
所在地 岐阜県恵那市岩村町飯羽間 2014.11.7 2017.8.23
登城ルート
東側遠景
登り口・南側遠景
屋敷跡曲輪
主郭虎口
主郭跡・萬霊塔
主郭跡・萬霊塔
飯羽間城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道406号線のL字に曲がる交差点付近に、案内板や「嗚呼飯羽間城落城の歌」が建てられている。南の小山に大きな「飯羽間城址」の看板が見える。
交差点を南に130m行き、右折して水田の中の農道を100m行くと登り口がある[マップコード368 724 409*46](地図)。
小山の周囲は断崖となっており、唯一の登り口である。橋を渡って、多少竹で歩きにくいが登って行くと手書きの由来看板が数か所あり、屋敷跡がある。
最高所の主郭は約30m×20mあり、「飯羽間城諸将士三界萬霊塔」が建てられている。北に一段低く曲輪がある。
遠山十八支城として、明知城、苗木城、阿寺城、飯羽間城、阿木城、千旦林城、串原城などがある。
【歴史】 鎌倉幕府の重臣であった加藤景廉(かげかど)が、幕府創設時の功績により源頼朝から与えられた荘園の中の一つが遠山荘である。
加藤景廉の長男遠山景朝が、遠山氏の初代となり、以後、岩村城を拠点として遠山荘を治めたが、やがて子孫たちが遠山荘内に分かれ分家をなした。その一つが飯羽間遠山氏である。
元亀三年(1572年)武田信玄の命により、家臣の秋山虎繁(信友)の軍勢が信濃国の伊那谷から美濃へ侵攻して岩村城の遠山氏を攻略した(岩村城の戦い)。
織田信長は岩村城の周囲に多くの城砦を配置し、そこに織田氏の軍勢を派遣して岩村城奪還の機会を窺った。
天正元年(1573年)武田信玄が没すると、後継者の武田勝頼は東濃の形勢を有利にするため、天正二年(1574年)3万の軍勢を率いて美濃国に侵攻したため、苗木城、串原城等の遠山18支城は次々に陥落した。
織田信長は、織田信忠、明智光秀など3万の軍勢で鶴岡山へ遣わし布陣して勝頼と対峙するが、武田軍の山形昌景に退路を脅かされて後退し、この間に17城目の明知城まで落城した。
最後に残った城は飯羽間城のみであったが、飯羽間城の戦線が膠着したため、武田氏の家老衆である馬場信春や内藤昌豐は勝頼に対して甲斐に引き上げるように進言した。
しかし新参の浪人衆である名和無理介、井伊弥四右衛門、五味与三兵衛等が、奉公のために浪人衆に飯羽間城を攻め取らせて欲しいと願い出ると、これを聞いた旗本近習衆、外様近習衆は、飯羽間城を残しておくと敵勢の情報拠点になると家老衆を批判し、また浪人衆の意見を通すことは他国への聞こえがよくないと主張した。
結局、長坂光堅や跡部勝資の進言により攻撃を継続することに決まり、飯羽間城を取り巻いていた先鋒勢が、飯羽間城の城戸を打ち破って突入し攻め落とした。
『甲陽軍鑑』には、信長から派遣された14騎の武者と城兵350余人を残らず討ち取り、飯羽間城主の遠山智信を土蔵で生け捕りにしたと書かれている。
武田軍が甲斐躑躅ヶ崎館に帰陣する際、足軽どもは「信長は 今見あてらや 飯狭間 城を明知と 告げの串原」と謡った。これは、「信長は城を明渡さないと浅はかに言ったが、黄楊櫛(つげぐし)のようである」という言葉に、攻略した5つの城名を織り込んだ唄である。
飯羽間城はこの落城のあと、そのまま廃城となった。