河田城 (こうだじょう) (高田城) (こうだじょう)
最寄地 愛知県一宮市浅井町河田神明社631 2014.12.11
河田城 (こうだじょう) (高田城) (こうだじょう)
最寄地 愛知県一宮市浅井町河田神明社631 2014.12.11
河田城跡碑
神明社
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 神明社(表記番地)の北西(フエンスがあり、直接行けない)の堤防道路より団地に降る道に面して「河田城址」の石碑が建てられ、裏面に由来文が刻まれている(地図)。 堤防道路に駐車できる[マップコード28 385 215*40]。
城跡は昭和まで残っていたが、昭和三十八年(1963年)の木曽川の改修工事の為、その形跡は無くなってしまった。
【歴史】 天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いの際、豊富秀吉が、織田・徳川連合軍と戦う為に構築された城である。戦いの後も秀吉側の城として存続したという。廃城時期は不明。
地名の河田(こうだ)は、元々は尾張国河田村であり木曽川はもっと北を流れていたが、天正十三(1585年)に発生した木曽川の洪水により流れが変わり、村が川で分断された。豊臣秀吉により、新たな川を尾張国と美濃国の境としたため、二つの村になった。
分断後も尾張国、美濃国のどちらも河田村を称した。高田城は尾張国側になる。尾張国側は、葉栗郡河田村となり、葉栗郡浅井町に合併後、一宮市浅井町河田となり、現在に至る。
一方美濃国側は、葉栗郡河田村となり、羽栗郡川島村に合併後、羽島郡川島村を経て羽島郡川島町になり、現在は各務原市川島河田町となっている。