薭生城 (ひうじょう)
最寄地 新潟県小千谷市ひ生甲397 2017.6.3
薭生城 (ひうじょう)
最寄地 新潟県小千谷市ひ生甲397 2017.6.3
登城ルート(緑線は車道)
登り口
水場
北尾根の堀切
主郭北側・右に竪堀
主郭・標柱・説明板
説明板
南東側堀切
南西側堀切
薭生城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高190m】
【感想】 標高260mの城山頂上に主郭があり、西と南に堀切で隔てて郭がある。三国街道を見下ろし、野辺山道をおさえ、信濃川の舟運を押さえた要衝であった。
【案内】 極楽寺(表記番地)駐車場に案内板が建てられている。[マップコード140 848 013*10]。
墓地の左より約1㎞の遊歩道が設けられ、要所要所に道標が設けられている。九十九折の道の途中に水場があり、尾根に出ると南に緩やかな道が続いている。
主郭北に堀切があり右手に畝状竪堀がある(鬱蒼としている草木の中に2条見られた)。
主郭の西に堀切があり、その西に鬱蒼とした郭がある。主郭は見晴らしがよく、蛇行する信濃川を望むことが出来る。主郭には城跡標柱や説明板が建てられている。南に堀切が残っている。
【歴史】 築城年代は明らかではないが、南北朝時代に最も活用されたものと思われる。当初、薭生(ひう)氏が居城したといわれるが、大永三年(1523年)上杉氏の将・平子右馬允(たいらくうまのじょう)が居城したと伝えられている。
その後、天正六年(1578年)上杉謙信没後の家督争い(御館(おたて)の乱)の際、平子氏は、上杉三郎景虎方に付いたため、上杉景勝方に攻められ落城したと。
慶長五年(1600年)、会津に移った上杉家の求めに応じて越後に残った上杉家の遺民一揆(いみんいっき)の際に、五智院の僧・海龍が遺民3800人の首領となって立籠もったが、間もなく鎮圧された。