深沢城 (ふかさわじょう) (県の史跡)
所在地 静岡県御殿場市深沢609 2014.12.7
深沢城 (ふかさわじょう) (県の史跡)
所在地 静岡県御殿場市深沢609 2014.12.7
説明板
登城ルート
城趾碑・説明板
三の丸・三日月堀・丸馬出し
二鶴様式の空堀(二の丸南)
二の丸跡
本丸跡・空堀・土橋
城櫓
深沢城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道78号線(足柄街道)の抜川に架かる橋の西を北に150m行った三叉路付近に「深沢城址」の石碑が建てられている[マップコード50 864 328*22](地図)。
馬伏川と抜川に挟まれた合流地点の丘に、二鶴様式で築かれた要害である。
三の丸周囲に三日月堀が残り、三の丸西に八幡宮の祠があり、民家(表記番地)が建っている。
三日月堀の東側に丸馬出があり、漢詩の石碑が建てられている。二鶴様式の堀跡があり、その北に二の丸があり田畑となっている。
二の丸の北に空堀・土橋を経て本丸があり、西側、馬伏川を眼下に望む地点に城櫓碑が建てられている。
民家の敷地、田畑となっているので、畦道以外は立ち入らないよう留意した方が良い。
昭和三十五年(1960年)静岡県の史跡に指定された。
【歴史】 起源は深沢氏の城館であり、十六世紀初頭に今川氏親が国境と街道の守備のため深沢城として築城した。
永禄十一年(1568年)武田信玄が一時占領するが元亀元年(1570年)には北条氏康・氏政父子が3万8千の軍勢で攻略し占拠、黄八幡で有名な北条綱成(つなしげ)を城主として配置した。
しかし同年十一月には武田信玄が大軍を率いて包囲、翌、元亀二年(1571年)一月三日信玄は深沢城に有名な矢文を送り開城を迫り、北条綱成は玉縄城に退去し、深沢城は再び武田家の支配下となった。
この戦いで多数の黒川金山衆を用いた破壊工作が大きな成果をあげ、のちに金山衆へは各種税の免除といった報酬が与えられた。武田信玄による再征服後に改修され、重臣・駒井昌直(右京之進)が城主として居城した。
天正十年(1582年)まで武田方の城として利用されたが、この年に武田氏が織田信長と徳川家康によって滅亡すると、城主であった駒井昌直は深沢城に火をかけてから退去した。
その後同地が徳川氏の所領になると深沢城は北条氏への備えとして再建され、三宅惣左衛門を置いた。
しかし天正十八年(1590年)に北条氏が滅亡すると、深沢城は破却された。遺構として残存しているものは武田氏の統治時代に形成された丸馬出や、その前面の三日月堀などが残り、これら以外の大部分は個人所有の農地や宅地となっている。