要害山城 (ようがいやまじょう) (要害城・積翠山城) (国の史跡)
最寄地 山梨県甲府市上積翠寺町1003 2014.1.3
要害山城 (ようがいやまじょう) (要害城・積翠山城) (国の史跡)
最寄地 山梨県甲府市上積翠寺町1003 2014.1.3
登城ルート
登り口の案内図
門跡
曲輪
門跡
主郭虎口・門跡
主郭・土塁
主郭・土塁
主郭東の堀切
要害山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高210m】
【案内・感想】 県道31号線の「積翠寺温泉」(表記番地)入口手前に駐車スペースがある[マップコード 59 731 105*51]。橋を渡って少し行くと 案内板が建てられ、登り口がある(地図)。
そこから要害山頂上を目指し登ってゆく。松葉の散り敷く道の不動曲輪や竪堀、四つの門跡を通り登り詰めると、南北22m・東西73mの細長い主郭がある。
標高779.8m比高約210mの要害山頂上に、石垣の崩れた土塁がめぐり「武田信玄公誕生之地」の石碑や「要害山」の標柱が建てられている。
北東側の尾根には堀切があり石垣が北面に残る。南東尾根上には支城の熊城があり、堀切で区切られた小郭がある。
平成三年(1991年)3月30日、「要害山」の名称で国の史跡に指定された。
【歴史】 永正十七年(1520年)武田信虎により武田氏館(躑躅ヶ崎館)の詰めの城として築かれた山城である『高白斎記』。
同年には、駿河の今川氏の武将福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻し甲府へ迫っており、信虎は正室の大井夫人を避難させ福島勢を駆逐しているが、夫人はその最中に城中で嫡男(後の武田晴信)を出産したという。
信虎・信玄・勝頼三代にわたって使用された。
武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊富系大名が入城し、加藤光泰により修築が行われた。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、廃城となった。