猿毛城 (さるげじょう)
最寄地 新潟県上越市柿崎区城腰374 2014.10.3
猿毛城 (さるげじょう)
最寄地 新潟県上越市柿崎区城腰374 2014.10.3
登城ルート
登り口・猿毛城跡標柱
神社石段
城山神社
腰曲輪の虎口
主郭手前の段郭
草茫々の主郭・塚
主郭・塚上の祠
柿崎和泉守景家之墓
猿毛城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高270m】
【案内・感想】 柿崎ダム堤防より東に県道25号線を約1.2km行北に左折して1.2km付近に駐車スペースがあり、道路右側(山側)に「猿毛城跡」の標柱が建てられている[マップコード298 613 257*57](地図)。標識はこれのみである。
近所の古老の話によれば、最近は登山者も少なく、荒れているとのことであった。また当日は雨で、傘を手に登るのは倒木などに阻まれ苦労させられた。
石段、鳥居をくぐり、城山神社裏手より九十九折れの登山道を登る。確かに途中倒木等で荒れており、急傾斜で比高も高い。
頂上手前に堀切や腰曲輪があり、登り詰めると、標高478.9m比高約270mの城山頂上に主郭がある。
主郭は南北に細長く、中央に塚があり、その上に祠が祀られている。家臣双方の遺体を葬ったとされる塚と祠と云われている。看板・由来説明看板は見当たらず、草地となり荒れ果てている。
南西約4kmにある楞巌寺(りょうごんじ・柿崎区芋島2727)山門は柿崎城搦め手門を移築したものと伝わり、寺に柿崎和泉守景家の墓がある。
【歴史】 戦国時代に上杉氏家臣で柿崎城主であった柿崎氏の居城で本城である柿崎城(国道8号線の北陸自動車道柿崎ICアクセスループ内にあり)より防御面などで戦闘向きな縄張りを施されていることから、政務や居住などの平時の場合は柿崎城を利用し、有事の場合は、この猿毛城を使ったと推測されているが、決定的な資料は見つかっていない。
天正六年(1578年)上杉謙信死後の跡目争いである御館の乱において、同一家中による激しい戦闘が行われた悲劇の城である。
旧城主である柿崎家の当時の当主であった柿崎景家の次男・晴家は、乱勃発当初から上杉景虎を支持し、支持表明後、樋口与六らにより謀殺された。
一方、上杉景勝から柿崎家復興の約束を受けた旧臣は晴家の子である千熊丸(後に柿崎憲家)を擁立し景勝側に付いた。
この事により旧臣が二つに分かれて戦うこととなった。 当時は同族での争いや家臣の分裂は珍しいものではなかったが、両派共に、お家復興という大きな名目があった為、景虎支持勢が敗れて全滅し、同種の家中での戦いの中ではかつて無いほどの激しい同士討ちとなった。
天正十二年(1584年)八月、千熊丸は元服して憲家と名乗り、憲家は約束どおり柿崎家を復興させ、旧領に復帰した。
慶長三年(1598年)の上杉景勝の会津移封後に、廃城となったと考えられる。