相良城 (さがらじょう)
所在地 静岡県牧之原市相良275‐2 2014.7.1
相良城 (さがらじょう)
所在地 静岡県牧之原市相良275‐2 2014.7.1
相良城趾碑
相良小学校・土塁・黒松
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 本丸跡に建てられている「牧之原市史料館」(表記番地)玄関横に「相良城本丸跡」と「相良城趾」の石碑が建てられている[マップコード83 354 785*53] (地図)。
二の丸跡とされる相良小学校の正門の左右に土塁の一部が残っており、安永九年(1780年)の築城時に植えられた黒松が牧之原市指定の天然記念物となっている(地図)。
その西に隣接する県立相良高等学校敷地が三の丸跡である。
【歴史】 平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて、相良荘の武士・地頭である相良氏(肥後人吉城主・相良氏の祖)の館(相良館)が築かれていた。
戦国時代、高天神城を攻略して遠江国の支配を図った武田勝頼が、相良に築城した(相良古城)。
その後、遠江は天正年間に徳川家康の治めるところとなった。天正十四年(1586年)、相良城は相良御殿とされ、徳川家康の鷹狩に用いられた。
江戸時代に入ると相良陣屋として相良藩の藩庁が置かれ、本多氏三代、板倉氏一代、本多氏一代が藩主となった。
田沼意次(おきつぐ)は御側御用取次であった宝暦八年(1758年)に江戸の呉服橋御門内に屋敷を与えられると共に、相良1万石の領主となった。意次はその後、十代将軍徳川家治の信任を受けて老中として手腕をふるい、所領も加増を重ねた。
明和四年(1767年)には家治の命によって神田橋御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれた)、築城を許可されて城主格となった。
相良城の建設には翌年から取り掛かり十一年間の月日を要した。意次は普請工事を家老の井上伊織に全て委ね、安永九年(1780年)の竣工時に六十二歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。特に天守を築くことを許されており、縄張りを北条流軍学者の須藤治郎兵衛に任せ、三重櫓の天守を築いた。
天明六年(1786年)、十代将軍家治が没し、松平定信が老中になると、田沼意次は失脚、蟄居・減封が命じられた。
天明七年(1787年)、退隠した意次から家督を継いだ田沼意明(意次の嫡孫・おきあき)は、陸奥下村藩1万石に転出となり、相良城も廃城とされ、天明八年(1788年)に徹底的に破壊された。田沼意明の移封後、相良は天領となった。
文政六年(1823年)、陸奥下村藩主・若年寄田沼意正(意次の四男)が、相良に1万石の領主として復帰し、相良城跡に相良陣屋を構えた。
明治元年(1868年)に田沼意尊(意正の孫・おきたか)が上総小久保藩に移されるまで、相良陣屋は相良藩の藩庁として機能した。