木ノ下城 (きのしたじょう)
所在地 愛知県犬山市犬山愛宕16‐1 2014.11.25
木ノ下城 (きのしたじょう)
所在地 愛知県犬山市犬山愛宕16‐1 2014.11.25
木ノ下城跡石碑
拝殿・説明板
説明板
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道27号線「犬山市役所前」交差点の南50mより西に曲がった一方通行路に面して愛宕神社(表記番地)がある[マップコード70 158 045*85]。
南の鳥居横に「木ノ下城跡」の石碑(地図)があり、2mほどの石垣上に本殿が建てられ、その前に「木ノ下城跡」の由来を記した看板が建てられている。
城の規模は、南北約200m、東西約200mであり、本殿の建つ高台に、城の主殿があり、南方に二曲輪、三曲輪が構えられ、東側と北側に堀があったという。境内にある古い井戸は、「金明水」と呼ばれ、神社の南西約100mの大榎の下にある「銀明水」と呼ばれる井戸と共に、木ノ下城の時代に掘られた井戸と伝えられる。また、「白厳水」と彫られた手水石が置かれているが、白厳とは織田信康の号名である『由来説明板』。
犬山城天守の三・四階の望楼部分は木ノ下城より移築された(犬山天守の解体修理の時、墨書があった)と云う。
昭和五十四年(1979年)12月25日、城跡が犬山市指定史跡となった。
【歴史】 文明元年(1469年)、越前国と尾張国の守護斯波義敏の命により、織田広近(尾張国上四郡守護代・織田敏広の弟)は小口城(大口町)から犬山に移り、木ノ下城を築城し、城主となった。
美濃国の斎藤妙椿(みょうちん・斉藤利永の弟)に対する牽制の役割があったという。織田広近は同時に犬山の乾山に、戦時用の砦を築いた。
天文六年(1537年)、織田信康(信長の叔父)は乾山の砦に城郭を造営し、犬山城として整備して拠点を移し、木ノ下城は廃城とされた。
永禄七年(1564年)、織田信長が犬山城に籠もる織田信清を攻める際、かつての木ノ下城址に宿営し、犬山城攻めの拠点とした(武功夜話による)。
慶長十一年(1606年)、鍛冶屋町の銘鍛冶兼常が城主小笠原吉次に願い出て、木ノ下城址に愛宕山長泉寺延命院が建立し、将軍地蔵を祀った。
延命院は明治初期の廃仏毀釈、神仏分離のため廃止され、延命院の中にあった愛宕神社が残り現在に至る。