松倉城 (まつくらじょう) (県の史跡)
最寄地 富山県魚津市小菅沼1274 2014.10.4
松倉城 (まつくらじょう) (県の史跡)
最寄地 富山県魚津市小菅沼1274 2014.10.4
登城ルート(緑線は車道)
登り口・城主之碑
空堀・本丸虎口
本丸・腰郭
本丸・城址碑
二の丸
二・三の丸間の空堀
三の丸・土塁
松倉城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 小菅沼城跡(武隈屋敷跡)より南に林道を約1.7㎞行くと三叉路に「松倉城跡」の標識がある。そこより800mほど行くと終点に駐車場が用意されている[マップコード144 622 267*36](地図)。駐車場の前に「松倉城主之碑」の石碑が建てられている。
そこより数m登るとすぐに空堀があり、北側に二の丸、空堀で隔てて三の丸と並び、土塁が残り北に堀切がある。
戻って南側に本丸、帯曲輪があり一段高い所の曲輪に自然石に「松倉城址」の板石が嵌め込まれ、案内看板があり、休憩所に支城を含めた地理模型がある。
松倉山(鹿熊山)の山頂(標高430.9m)に位置し、本丸には数百本の桜が植えられ(富山さくらの名所50選に指定)、展望も良く、新川平野一帯を一望できる。三方は断崖で、五郭で構成され越中最大級である。
松倉城はいくつかの支城(魚津城・水尾城・北山城・小菅沼城・舛形城・坪野城・天神山城)を持っていて、魚津市山間部一帯に山城群を形成していた。
昭和四十年(1965年)年1月1日、県の史跡に指定された。
【歴史】 建武二年(1335年)頃の築城と言われている。
同年、中先代(なかせんだい)の乱(鎌倉幕府14代執権・北条高時の遺児時行が、諏訪家9代諏訪頼重・10代時継父子らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱)が起きた。松倉城主で越中国守護の普門利清は、足利尊氏に応じて越中国国司の中院定清と敵対し、長沢城で戦った。
その後桃井氏へと移り、南北朝時代のあとは椎名氏の居城として、越中東部の政治・軍事の中心として栄えた。
椎名氏は最盛期には富山県呉東地域(呉羽丘陵の東)にまで勢力を拡げていたが、元亀元年(1570年)城主の椎名康胤が、主家の上杉謙信から武田信玄に寝返ったために上杉勢に攻められた(松倉城の戦い)。
その結果、戦に敗れ椎名氏は城から逃亡し、椎名氏による長い統治が終わった。
その後は河田長親が入ったが、天正十一年(1583年)に佐々成政率いる織田勢によって落城し、麓の鹿熊(かくま)にあった城下町は魚津へ移った。
慶長年間に廃城となったと言われている。