於曽屋敷 (おぞやしき) (県の史跡)
所在地 山梨県甲州市塩山下於曽539-2 2015.11.22
於曽屋敷 (おぞやしき) (県の史跡)
所在地 山梨県甲州市塩山下於曽539-2 2015.11.22
説明板
石垣・屋敷門
南側土塁
南側土塁
東側土塁
北側土塁
西側土塁
於曽屋敷跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 JR中央本線「塩山駅」南より、県道34号線を約350m行き、東に行くと於曽屋敷(表記番地)の南側に駐車場(地図)が用意されている。駐車場右奥と左手の「於曽第二公園」入口、屋敷門前の3ヶ所に説明板が建てられている。
東西約96m南北約120mの長方形の敷地は土塁が4辺残り、屋敷の東半分が「於曽公園」として開放されている。公園内は花壇となっている。屋敷の南に民家となっている石垣、門がある。
『図説山梨県の歴史』によると、内堀、外堀の二重堀を巡らせていた。
昭和三十八年(1963年)9月9日山梨県の史跡に指定された
【歴史】 「於曽」の起りは平安中期の『和名抄』に記載が見え、この地の開拓者は旧豪族の三枝一族であった。
その後、甲斐源氏の加賀美遠光の4男光経、5男光俊がこの地を支配し於曽氏と称した。鎌倉時代初期の創立である。
於曽氏数代の居館となり、信玄の時代には同族の板垣氏が於曽を継承し、於曽殿として活躍した。
また、この屋敷の周囲には金山の管理者である金山衆が多く住居を構え、又金製法の作業場があったことから、当屋敷はそれらの金山関係者の役宅とも考えられる。
更に今日於曽屋敷内から採集される土師質土器から考察しても、当屋敷が鎌倉時代から室町時代にかけて経営されたと考えられ、文献資料と一致する。
昭和六十年山梨県埋蔵文化財センターが外土塁内作業の調査したところ、門の位置が現在より東に12m寄り、その前に土橋柵列があったことが確認された。『塩山市教育委員会』説明板より。