郡上八幡城 (ぐじょうはちまんじょう) (積翆城・郡城)
所在地 岐阜県郡上市八幡町柳町659 2010.11.6
郡上八幡城 (ぐじょうはちまんじょう) (積翆城・郡城)
所在地 岐阜県郡上市八幡町柳町659 2010.11.6
山内一豊と妻の像
石垣・およし塚の句碑
木造模擬天守西面
木造模擬天守南面
天守から見た市街風景
郡上八幡城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★ 比高100m】
【案内・感想】 「安養寺宝物殿」の南の道を、北東に行くと「城山公園」があり、馬を受け取る「山内一豊と妻の像」が建てられている。
そこから一歩通行の舗装道が郡上八幡城(表記番地)駐車場まで通じている[マップコード403 025 050*38]。
麓から比高約100mの八幡山に石垣が残り四重五階の木造模擬天守(表記番地)や城門、二重櫓が建てられている(昭和八年築)。
入場料は大人310円、小・中学生150円(9時~17時・休館日は12月20日~1月10日)。
五階から南方に吉田川に沿う郡上八幡の市街が展望できる。天守へ行く途中、およし塚に「城山の露と消えゆく人柱」の句碑が建てられている。
昭和三十年(1955年)8月30日、岐阜県の史跡に指定された。
【歴史】 郡上一円を支配していた東氏を亡ぼした遠藤盛数により、永禄二年(1559年)八幡山に築城された。
土佐藩主山口一豊の妻で内助の功で有名な千代は、初代八幡城主遠藤盛数の娘として生まれた。後に縁あって一豊のもとへ嫁いだ。
永禄五年(1562年)長男の慶隆(よしたか) が城主となったが、本能寺の変後、豊臣秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。
慶隆の追放後、天正十六年(1588年)稲葉貞通が城主となり天守台や二の丸が造られている。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで稲葉貞通は、はじめ西軍に付いたが、東軍に寝返り戦功を立て、豊後臼杵城主として初代臼杵藩主となった。
関ヶ原の戦いの功により、再び遠藤慶隆が4代城主となり、初代郡上藩主となった。郡上藩の政庁が置かれ、廃藩置県迄続いた。
5代藩主・遠藤常久の後は、井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と藩主の交代があった。
金森氏第2代藩主・金森頼錦(よりかね) の時、宝暦四年(1754年)から4年の長きにわたって年貢増徴に反対する百姓一揆が起きた(いわゆる郡上一揆)。
さらには石徹白(いとしろ)騒動(白山中居神社の指導権をめぐっての神主派・神頭職派の争い)と続き、頼錦は宝暦八年(1758年)十二月に所領を没収されて改易となり、盛岡藩へ身柄を預けられた。
その直後、宮津藩2代藩主青山幸道(よしみち) が郡上藩主に移封され、安永四年(1775年)長子幸完(よしさだ)に家督を譲った。
以後代々青山氏が郡上藩主(4万8千石)を務め、7代幸宜(ゆきよし)が藩主の時に明治維新を迎え廃藩置県により廃城となった。翌年、石垣のみを残して取り壊された。
昭和八年(1933年)大垣城を模して当時珍しかった木造で復元され、日本100名城の選定対象になったが、検討の結果、選ばれなかった。