小口城 (おぐちじょう) (箭筈城・大久地城)
最寄地 愛知県丹羽郡大口町城屋敷1‐153 2014.12.13
小口城 (おぐちじょう) (箭筈城・大久地城)
最寄地 愛知県丹羽郡大口町城屋敷1‐153 2014.12.13
城址公園碑
西側堀・物見櫓
南側・物見櫓・塀
城址碑・太鼓橋・門
資料館・井戸・野鍛冶炉跡
小口城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道158号線「六部橋南」交差点の北の横断歩道橋手前を左折し、一方通行の道路を220m行き左折南に180mほど行くと、小口城址公園の南に駐車場が用意されている[マップコード70 005 457*72]。
西側に「小口城址公園」の石碑があり、堀が西から南に在り、南から東に土塀が復元されている。南中央に橋・門が建てられ、「小口城址」の石碑が建てられている。
公園内南西に物見櫓が建てられ、中央の高台に資料館(表記番地)があり横に井戸・野鍛冶炉跡が残っている。資料館は無料で開放され、織田家の資料が展示されている。
【発掘調査】 平成六年・八年の発掘調査で、戦国時代の建物礎石、井戸、野鍛冶炉跡が確認され多数鵜の土器片、鉄片が出土した。平成十一年小口城址公園として整備された。
【歴史】 長禄三年(1459年)織田遠江守広近によって築城されたといわれ、別名「箭筈城(やはずじょう)」とも云われ織田氏の尾張経営の要所として長い間、尾張北部の政治の中心を担った。
初代城主広近は尾張国守護の斯波氏の守護代岩倉城主織田敏広(広近の兄)を補佐すべく、小口城を拠点に犬山に木之下城を築城し、美濃の勢力に対抗して尾張北部を治めた。
『文正記』によれば、文正元年(1466年)広近は大軍を率いて主君・斯波義廉(よしかど)を助けるために上洛した。また『親元日記』には、広近、千代夜叉丸(兄敏広の子)と敵対していた織田大和守敏定がそろって将軍家(足利義政と妻日野富子)に進物を贈った旨が記されている。また、出家し徳林寺を再興、更に万好軒という隠居所(妙徳寺)を造り亡くなるまで住んだ。 その後、小口城は岩倉城や犬山城の支配下に入っていた。
永禄年間(1558~70年)に信長の攻略を受けた中島豊後守は投降した。そののち信長は犬山城を攻めた。その頃の城主は「中嶋豊後守(犬山城家老)」となっている『信長公記』。
また町内の余野神社には「謹奉・・・慶長貮年丁酉・・・中嶋佐兵衛尉」と彫られた鰐口があることから、十六世紀後半には中島氏が小口とその周辺を治めていた。
天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いで秀吉側の前線基地として稲葉一鉄に治めさせ、使用された(五月二日)。同年十一月十五日、秀吉は小口城を廃城とし、塀・柵を犬山へ、兵糧を長島へ移した。